夏樹は不機嫌だった。外出するときはいつもそうだ。夏樹は人混みを好まない。が、それでも編集者が自宅に来るよりはよほどましだと思う。 だからこうして渋々ながらも出てくるのだ。ずいぶん昔のような気がする。まだ真人と知り合ったばかりの頃は彼がよく使いを務めたくれた。いまとなっては名の知れた歌人である彼に原稿を持たせるわけにも行かない。もっとも真人自身は気にもしていない。今でも頼めば気軽に使いをしてくれることだろう。 そう思うからこそ、結局夏樹は甘えすぎの自分を戒めるためにも自分で原稿を持ってくるよりない。不機嫌を隠そうと努力しながら羽織の紐をいじる。真人がいれば房が傷むと言ってたしなめるだろう、そう思えば早く帰りたくてたまらなかった。 「篠原先生、お待ちしておりました。いつもすみません」 早々と帰りたいと思ったものの、実はまだ編集者に会ってもいない。にこやかに出迎えてくれた彼の顔を見るにつけても溜息をつきたくなってくる。 「ご連絡いただければ私が参りましたのに」 そう言うのもいつものこと。夏樹は黙って首を振り、それでは申し訳ないとばかり多少の笑みを足した。 「次回の連載分です」 「これはこれは。ありがとうございます」 「確かめてください」 ほくほく顔の編集者に夏樹は若干の呆れを隠せない。もっとも、注意深い表情で編集自身には隠せたようだが。 何の変哲もない茶封筒から原稿用紙の束を取り出した編集者はなんとも嬉しそうな顔をする。確かに小説を物するのは夏樹にとっての楽しみであるし、一番の読者が誰よりも次を待っている。 夏樹は掲載誌の次号を胸を弾ませて待っている真人の顔を思い浮かべ、すんでの所で笑い出しそうになる。 いつか言ったことがあった。 「そんなに知りたければここで読んでしまえばいいだろうに」 「わかってないね、夏樹」 「なにがだ」 「僕はあなたの小説の崇拝者なんだよ」 「だからなんだ」 「毎月、雑誌が出るのを本当に楽しみにしてるんだから、それを奪わないで欲しいな」 言って彼はわざとらしく顔を顰めて見せた。だから夏樹はそれ以来真人からあからさまに原稿を隠している。 多少、気にかかることはあった。以前は真人が原稿の清書をしてくれていた。いまはそのような事情でしていない。あるいは、と夏樹は思うのだ。もしかしたら真人は自分の怠惰を改めさせようと思ってあのようなことを言ったのではなかろうか、と。楽しみにしてくれていることだけは紛れもない事実と知っていたけれど、そのように疑ってみると何か乗せられてしまった感に夏樹は苦笑を漏らしてしまう。 「篠原先生」 不意に呼び声に正気づく。しっかり彼を見ていたという風を取り繕って夏樹は編集者に視線を向けた。 「ここの部分のですね『云う』ですが、前の回では『言う』になっていたと思います。ちょっと確かめて……」 早くも腰を浮かしかけた編集者を夏樹は手で制し、自分の原稿を覗き込む。 「いや、かまいません。私の間違いでしょう」 「ですが」 「今回は少し時間がなかっのたで、清書のときに間違えたのでしょうから」 「はぁ、さようですか。では」 「直しておいてください」 「かしこまりました」 恭しく頭を下げられても少しも嬉しくなどない。自分はいつまでも一介の小説家でいたいと思っているのに、書いてきた時間が長いというだけで編集者はこんな態度を取る。いささか不快だった。一刻も早く帰りたい思いだけが募っていく。 「枚数は足りていますね」 ついそんなことを言ってしまったのも、帰りたくてたまらないからだ。それに編集者はぼんやりとした目を向けてきた。うっかり没頭しているところに声をかけてしまったらしい。 すまない、そう思った。軽く視線で詫びれば何事だったのか理解しないうちに彼は原稿に戻っていく。なにはともあれ熱心に読んでくれるのは物書きとして嬉しいことだ。 「いやぁ、次が気になりますねぇ」 そう編集者が言ったのはしばらく経ってからのこと。黙ってじっと待っている夏樹に気を利かせた別の人間が運んできた茶がだいぶ冷めたころだった。ちょうどよい温度になった茶を夏樹はすすり、ためらいがちに微笑む。 「そうですか?」 「もちろんです。編集者は最初の読者ですからね。もう次が待ち遠しいですよ、先生」 夏樹は笑みを浮かべたまま答えない。編集者が間違っているのを知っているのは二人だけ。 「先生、実はこの女が主人公の仇だったとかって、予想してるんですが」 「さて、どうでしょう」 「うーん、違いますか。どうかなぁ」 まったく仕事を忘れて首をひねる編集者を夏樹は面白そうに見ている。彼の予想はまったくの外れだ。読者に向けてそう思わせようと張った伏線に、彼が嵌ったのを見るのは楽しい。引っかからなかった一人はあまりにも夏樹を知りすぎていて、彼の反応は多少あてにならないせいもある。 「ところで、先生」 「なんですか」 「別に連載をお持ちになりませんか」 「無理です」 「……もう少し考えてくださいよ」 「いまの量が限界ですよ。これ以上は質が落ちますから」 「それを言われると思ってたんですよねぇ」 嘘くさい溜息をついて見せ、彼は言うだけ入ったとばかり口許をほころばせた。元々期待はしていなかったのだろう。 「もうしばらくしたら水野先生の百人一首の連載が終わるじゃないですか。ですからまた先生に、と思ったんですけどねぇ」 「その前も私でしたよ」 「ありゃ。確かに」 言って彼は額をぺしりと叩いて見せた。ますます嘘くさい。 「ところで、その水野先生なんですが」 ほら来たとばかり夏樹はあえて微笑んで彼を見る。 「篠原先生にお持ちした見合い写真をこの前水野先生に断られてしまって」 「当然でしょう」 「はぁ」 「あれは私の身内ではありませんよ。そもそも私は独身主義でね」 嘯いて夏樹は茶をもう一口すすった。あの時の真人の憤慨振りを思い出しては浮かびかける笑みを隠すために。 だいたい、と夏樹は思う。どう考えても真人に自分の見合い写真を持っていくのは筋が違うではないか。 「そこでですね。私は考えました」 めげずに言う編集者に、何か嫌な予感がした。彼はと言えば、誰かを呼びつけては自分の机から何かを持ってこさせている。平たくて薄い、硬い紙だ。夏樹は考えたくもない。つい最近、見た覚えがある。 「まず水野先生に嫁さんを見つけなくっちゃ、篠原先生の奥方を探すこともできないんではないか、と」 にんまり笑って編集者は一葉の見合い写真を差し出した。夏樹は黙ってそれを開いてから気づく。どうして自分に真人の見合いの話を持ってくるのか、と。 写真の女は美人だった。どう見ても写真屋の腕がいいとしか言いようがない。不自然なほどに整った顔は写真屋が何がしかのことをしたせいだろう。 「このお嬢さんはですね、芳紀二十五歳。まったく素直なお嬢さんで、何より料理の上手」 「芳紀と言う言葉はその年齢には使いません」 「これはお手厳しい。でも本当にいいお嬢さんですよ。家事がお好きでねぇ、いつもお母様の後ろについては一緒に精を出しておいでだ」 「琥珀は家事が好きでね」 「ははぁ。それは篠原先生のお側にいるからです。きっとご結婚なさったら……」 「それはいささか女性を侮辱する発言です」 「あ、いやいや。そんなつもりはまったく。はい」 殊勝げに頭を下げた編集者は、けれどぺろりと舌を出して見せる。そんな仕種は夏樹には不快だ。 夏樹はいまだかつて愛情から結婚しようと思ったことはただの一度もないけれど、それでも素敵だと思った人はいる。 それは尊敬と同列のせいぜいが敬愛であって真人が嫉妬するような種類では決してない。どんなことがあっても落胆せず、明るく華やかに生きた人。藤井桜であった。彼女に比べればたいていの女は霞む。 「どうでしょう、先生」 「なにがですか」 「ですから、水野先生に」 「なにか誤解してるのかな。私と琥珀は身内同士ではありませんよ。私のところに琥珀の見合いを持ってくるのはおかしいでしょう」 「まぁ、そう仰らずに話だけでも」 「面倒です」 言いざまに、静かではあったけれど夏樹は前のテーブルに写真を置いた。二度と手に取るつもりはまったくない、とはっきりわからせるように。 「水野先生ももうお忘れになってもいい頃でしょうに、ねぇ」 「何のことです」 「ほら、あの話ですよ。水野先生は早くに恋人を亡くされたって」 思わず夏樹は失笑する。そんな馬鹿な話を聞いたのは初めてではないけれど、だからこそまだ噂が残っていたことにおかしさを隠し切れない。 「篠原先生もご存知でしょ」 「それがただの噂話だと言うことはよく」 「は。それじゃ、事実ではない、と?」 「琥珀の恋人は生きてますね」 うわぁともなんともつかない声を編集者が漏らした。よほど確信を持っていたのだろうと思えば少しばかりは哀れでは、ある。 「篠原先生は、お会いになったことが?」 めげない編集覇者は仰け反っていた体を一息に戻しては乗り出す。ずいと近づいてきた顔に夏樹のほうが体を引いた。 「まぁ……顔を見たことくらいはありますね」 嘘ではない。毎日、鏡の中に見ていると内心に呟く。 「美人ですか」 「それは見方によりますが」 「と言うと個性的な……その……ご容貌で?」 「好みの問題でしょうな。琥珀がその恋人を一番に思っていることは確かですが」 言いながらも面映い。照れないよう必死の夏樹を編集者が不審な目で見つめる。 「琥珀が恋人の話をするのを聞くと、こちらが恥ずかしいほどでね」 そんなことを言い足して夏樹と言葉を取り繕う。編集者は納得しかねる、そんな顔をしていたものの現実に他の女がいるのではいまのところは仕方ない、と思ったのだろう。とりあえずとばかりうなずいて見せた。 「そのお嬢さんですがね」 「どの?」 「水野先生の」 ほっとしてぼんやりしかけた夏樹を何事も知らない編集者が笑う。 「どんなお嬢さんです。家事が得意とか、お茶を習ってるとか」 いったいどういう感覚をしているのかと疑うが、それが一般的な花嫁修行と言うものだと思い出して夏樹は笑いをこらえた。 「家事はまるでだめらしいですよ。教養と礼儀作法くらいは心得ているようですが」 そ知らぬ顔をして言う夏樹に編集者は首を振る。 「なにか?」 「いやぁ……変わったお嬢さんがお好みなんだなぁと思いまして」 「だから、無駄ですよ」 夏樹は機会を逃さなかった。珍しいほどの笑みを相手に見せてわざとらしく小首をかしげる。 「琥珀の趣味は変わっています。あれはちょっとおかしい。ですから、見合いは無駄でしょうね」 「変わっていますか」 「変人ですよ、琥珀はね」 それが極々当たり前の感想だとでも言いたげに夏樹はさらりと言い放ち、とっくに冷たくなってしまった茶の残りを飲み干す。 「無駄ですかねぇ」 肩を落とす編集者に、夏樹は再び笑みの一撃を見舞って立ち上がる。 「これ以上無駄なことはありません」 聞き間違えようも解釈の仕様もない夏樹の言葉に編集者は椅子の上に小さくなった。これで二度と彼が見合いの話を持ってくることはないだろうと思えばすっきりする。 以後、真人がここを訪れるたびにこそこそと影で「変人らしい」など囁かれる羽目にはなるのだけれど、当人が気づかなければなんの問題もなかった。夏樹だけはそれを聞くたびほくそ笑む。 |