初めて「出逢った」のは、彼の祖母の葬儀でだった。
 名のみばかりの春、というにもまだ浅い寒い日の事だった。
 日本に来てから一年、言葉に不自由はないとは言え、続柄さえよくわからない親戚の中に晒されているのにカイルは堪えかね、そっと席をはずした。

 広い庭には緑があふれている。
 夜でなければもっと美しいだろうに、そうカイルは少しだけため息をつく。
 それでも人いきれから逃れてきた身には濃密な緑の匂いが心地いい。
 ふと目を移せばずいぶん早咲きの桜がすでにはらはらと散っていた。
 闇の中、一本だけ白く光を発しているかにほの明るく輝く桜の木。
 ぼうっとした明るさはエロティックと言うより妖艶、だった。
「夏樹、さん?」
 その夜にもなお濃い木の下闇に彼は立っていた。
 中等部の紺色のブレザーに、白い花びらが散り掛かっている。
 黙って桜を見上げていた彼は静かにカイルと視線を合わす。
 目元のきつさが、葬儀に居合わせた誰よりも彼が一番祖母の死を悼んでいる、そう語っていた。
「……来てたんですか」
 じっと見つめる、いや射竦めるような視線。
 確かにこの日本の遠い親類と、カイルは今まで関わりをあまり持たないできた。
 けれどこうした場には出席するのが礼儀、とも思い、友人の露貴の祖母でもある。
 だからカイルはいまここにいる。
 それを悟ったのか、どうか。
「……ありがとう」
 夏樹がそう小さな声で呟いたのはしばらく経ってからだった。
「どんな方だったんです?」
 再び桜を見上げていた夏樹に、ふとそんな事を訊いてみる。
「雪桜っていって、きれいな、人だった。優しくて。……俺にはいつも甘かった」
「ゆきおさん……どんな字を?」
 まだ漢字には疎いせいかつい、そう尋ねた。
「雪に桜」
 降りかかる桜の花びらをそっと彼は掌で受け止め。
「Schnee- und Kirschbaum」
 雪の降るように散り掛かる、桜。
 思わずカイルは母語で彼の言った言葉を復唱し。
 彼と同じものを見たかった。彼が味わっているのと同じなにかを感じたかった。
 ただそれだけだったのに、彼は。
「そう」
 カイルの母語での呟きに、そう答えたのだった。
「え……」
 カイルは驚く。
 顔をあわせた、程度の面識しかない異邦の自分をこの今年十四歳になる少年が気をつけていてくれた、とは思いもしなかった。
 まさか母語での呟き聞き取ってもらえるなどとは思ってもみなかった。
「夏樹さん」
 嬉しくてそう呼びかけたとき、彼はなぜか動揺したような顔を見せ。
 そのまま背を向けそこにたたずんだ。
「別に……」
 なにか言いかけ、結局彼はなにも話さない。
 その背がずいぶんと張り詰めたものに、カイルには見えたのだった。
 ぴんと張った銀の糸。些細なきっかけで折れ崩れ、粉々になってしまう銀の、糸。
 華奢な肩。細い首。
 突然
「守りたい」
 そんな強烈な欲求が沸き起こり、そしてすぐに否定する。
 守られるような存在ではない。
 いまはまだ幼いけれど、その薄い背中にはもう男の覚悟、とでもいうようなものが漂っている。
 カイルは目の前の細い肩にかかる重責を見たのだった。
 亡くなった長兄のようだ、そう思う。
 古い家柄、新しい家業。そういったものを放り出す事が出来ず、まるで責任に押しつぶされるように死んでいった、兄。
「この人にはその兄と同じ匂いがする」
と。
 守られる、などという事を兄がその誇りにかけて望まなかったように彼もまた望まないに違いない。
 だから。
 支えたい。補佐してみたい。
 まずなにより、感情を押し殺した彼の、本当の笑顔を見てみたい。
 カイルは気づいたのだった。
 夏樹の視線のきつさ、あまり動く事のない表情は、自己を律するために起こってしまっている、と。
 自分の両肩にかかる重さを彼が自覚すればするほど、彼は自分の感情を表に出す術を失っていく。
 思えば時折学校で顔をあわせたときも、彼の笑った顔は一度も見たことがなかった。
 ぞっとする。
 もしかしたら彼もまた、兄のように。
 嫌だった。
 背を向けたままの彼はまだ掌に桜を集めている。
 ふっと、息を吹きかけては花びらを散らし。
 たぶん知らずしているのであろう、子供の仕種。
 それを見ている自分の中に沸き起こってくる思いがなになのかはまだ、わからない。
 けれどこの人を兄のような目に合わせたくはない、それだけは確かだった。
 重荷を代わりに背負うとは出来なくとも、彼が寄りかかって休める存在になりたい。
 そっとため息を漏らしカイルは桜を見上げ。
 運命、などというものを信じるカイルではなかった。
 けれど、ふと兄がこの人と出逢わせるために日本、という土地を選んでくれたような、そんな気がした。
 冷たい風が吹き抜けていく。
 視線を戻すと彼はうるさげに肩の桜を払い落としていた。
 なにか、声をかけたかった。
 自分がいま感じた思い、それは
「ただ側にいてみたい」
 という単純なものであったにもかかわらず、カイルはそれを口には出来なかった。
 なんと言っていいのかわからなかったのだ。
 彼は黙ったまま、歩き始めている。
 立ち去り際、振り返ってほんの少しだけ口元に微笑を浮かべた。
 そのまま。
 なにを言うわけでもなく、歩き去る彼の後にちらりと見えた幻。
 一瞬、自分が彼の後に付き従った、そんな幻影をカイルは、見た。
 はらりはらり。
 桜が散り掛かる。
 木の下闇に立つ自分より、去っていった彼の向かう窓の明かりのほうがずっと濃い闇のようにも見え。
 去り際に夏樹が見せたかすかな笑みは沈黙への礼だった、と気づいたのは彼の姿が見えなくなったずっと後だった。
 桜だけが散っている。
 肩の白い花びらを彼がしたように払ってカイルもまた、歩き出した。




モドル