梅の古木から、よい匂いのする風が吹いてくる。 青梅だ。 青梅、とは言ってもほのかに橙色を帯びるまで放っておくのが真人の流儀だった。 今日は梅雨の合間か珍しく、晴れた。 相変わらず原稿に追い立てられている夏樹にそっと湯飲みを差し出せば 「ん……」 そう分ったのだか分らなかったのだかよく判らない返事が返ってきた。 自分も歌に苦しんでいる時はあぁなのかな、と苦笑して縁側から庭に降りれば、いっそう強く梅の実が香る。 「梅の実、か」 いつだったか、夏樹は言ったのだ。 「この香りがいい。よく熟した梅の、ただこの季節だけの香りがいい」 と。 夏樹という人は季節季節をそれは大事にいとおしむ。 歌人である自分がはっとするほど風物に対する感覚が鋭いのだ。文筆業である、というだけではないと真人は思う。 ようやく自らの意思で生きている、と言える様になったら世界そのものが愛しくなったのかもしれない。 「我ながら図々しいぞ」 苦笑と共に呟くけれど、本当はちっともそうは思っていない自分に気づいてまたも真人は苦笑する。 夏樹がそうであるようにまた、自分もそうだから。 もしも生まれに定めがあるのなら、きっと自分は夏樹に会うために生まれた。 彼の痛みを少しでも分る事が出来るよう、戦争と言う痛い目にも遭ったのだ。いい事も悪い事も生きてきた全てが夏樹につながる気がする。 それはなんともいえない幸福感だ。 ふふ、と忍び笑いをもらしながら振り返れば、眉間にしわこそ寄せてはいないもののきっと原稿用紙を睨みつけた彼がいる。 いい男だな、と思う。 黙っていれば……そう眠ってでもいるならばどんな美女でも裸足で逃げ出しかねないような端正な美貌。端正だの、美貌だの言うのが恥ずかしいほど。 それがふ、と目を開けたとたん男の顔になる。 きつい、なにものかを乗り越えてきた、目。 もういいかげん見慣れたはずでもその瞬間はぞくりとする。 そのくせ笑み崩れたとき、陽に透けたとき、なんとも言えない綺麗な蒼い目になる。 あどけない、とさえ言いうる、それ。 梅の実の話をしている時もそんな目をしていた。 「摘んであげようか」 またも呟いて最近独り言が多いな、と笑った。 主婦まがいのことをしている所為かもしれない。 主婦のフの字が違うな、そう思ってはまた笑う。 邪魔をしないようそうっと彼の前を通っては台所から綺麗な小鉢を。 小鉢、というには少々大きすぎるそれは梅の実を五つほど入れるのにちょうどいい。 再び庭に下りて今度は梅の木の下。 珍しい陽光に朝は喜んだものの、午後も遅くなると随分暑い。 夏も本格的になりつつある強い光を梅の柔らかい葉がさえぎってくれる。 ついこの間まで黄色いと言った方がいいような淡い緑色をしていた葉がもうしっかりとした緑になっている。それでも梢はまだそんな可愛らしい葉。 風が吹き抜けても鳴らないほど柔らかい葉が陽の光を遮っているかと思えばなんだかいとおしい。 枝がたわむほどたわわにつけた実も、また。 ひとつ、ふたつ、五つほど程よく熟れた実を摘めば、いつの間にか指先に、体に梅の移り香。 思わず赤面して夏樹を振り返ればいつから見ていたものか彼がにやり、笑った。 頬が、熱い。 どんなに長い時を共にすごしても、たぶん死ぬまでこんなことは慣れやしない、真人は思う。 「君子豹変とは夏樹のことだよ」 ふぅ、とため息が出た。 人嫌いの所為もあるのだろうけれど、普段人前では端然として性的なものを一切うかがわせない。水野元子爵の嫡男だ、そう言えば、さもありなんと人はうなずく。 そんなくせ……。 照れ隠しの憤りを浮かべつつ縁側の障子のうち、ことり、小鉢を置いた。 「どうした」 言われた時にはもう腕に抱きとられて。 「夏樹、原稿」 小柄な体を包み込むように抱きしめられてしまえば、なんだか安心してしまうのもいつものこと。 「仕事も大事だが、お前の方が今はいい」 そんな風に言われるのもいつものこと。 頬にあたる単の結城が夏らしくて気持ちがいい。面倒がりの夏樹は着物が痛むのも気にせずに普段着は長襦袢をつけずに着てしまう。 だから。 薄い着物のその下の、肌のぬくもりが、甘い。 「真人」 呼ぶ声にふと顔を上げるなら、そのまま唇を捕らえられた。 くちづけ。 何度交わしてもいつまでたっても、嬉しくて仕方ない。 この唇に触れることを許されているのは自分だけ。そんな独占欲、かも知れない。 「なにを思い出して赤くなってた?」 喜んだのもつかの間、思わずひっぱたいてやろうかと思った。 思えば思うほど昨夜のことがまざまざと思い出されて耳までが熱くなってくる。 「聞かなくても分ることを聞くのは悪趣味って言うんだ」 「さて、何のことだか」 とぼけて笑う夏樹の耳をかりり、噛んでは真人もまた、笑う。 それこそまるで昨夜の続き。 「痛いだろ」 ちっとも痛がっていない顔して夏樹が真人の手をとった。 そっと指を含んではお返しだと目が笑い、歯を立てる。 「何のことだか」 今度は真人が言い返し、 「際限がなくなりそうだね」 言っては二人、笑った。 置いた小鉢の所為か吹き抜けていく風に梅の香りが濃い。 取られたままの指先に夏樹が再びくちづける。 「梅の香りがする」 夏樹の目がそう、言った。 「いいかげん、原稿に戻るんだね」 言いながらふわり、真人は身を翻し、軽い動作で庭に降り立つ。 梅の木の下で振り向けば、はや彼は原稿用紙に目を落としている。 その手の中にひとつ、梅の実。 覚えず真人もひとつもいでは掌にこめ、玩んだ。 ふ……と思う。 今、夏樹は梅の香りを楽しんでいるのだろうか。それとも梅を通して僕を恋うているのだろうか。 僕の体に、着物に、移ったのは彼の匂いだろうか梅の香だろうか。 「君がため摘みあつめてし梅の実の 清雅の香り我が身に残る」 考えることもなく口をついた歌に真人は莞爾、笑った。 |