「ハル〜無花果もらったよ」 翡翠はそう言って帰ってきた。 相変わらず玄関からではなく、庭から上がってくる。そうしてにっこり笑って言う。 「ただいま」 と。 その両手いっぱいに抱えられたのは無花果の実。深い秋色の果実を抱いた高遠翡翠の両頬も薄く上気している。 不意に吹き込んできた風が、急に冷たく感じた。 さして強くもない風が庭の木の葉を散らしていく。 梅の落ち葉に赤く染まった楓の葉。どこから紛れ込んだのか鮮やかな公孫樹の黄色が目に留まる。 今日はだいぶ冷えたのか。 研究日、と称する休日で家にいた水野春真はぼんやりとそんなことを思ったのだった。 春真は教師だ。翡翠はその教え子だった。今年の三月まで。彼は春真が奉職する男子校の生徒だったのだ。 去年の今ごろ、今日の日を想像できただろうか。いや、できはしなかったろう。 望みを捨ててはいなかったけれど、毎日が綱渡りのように神経を尖らせていなければならないほど辛かった。 それがいまは。 「ハル?」 こうしてかけがえのない大事な恋人として翡翠はハルの側にいる。 春真の事を愛称で呼び、幸せそうな笑顔を春真にだけ、見せる。「先生」と呼ばれない、幸福感。 こうして一緒に暮らしていてもまだもそんなことが幸せだった。 「ん、悪い。ぼうっとしてた」 らしくないね、翡翠は笑う。 そして、冷えてるからおやつに食べようよ、と言ってはさっそく無花果の皮をむき始めていた。 とろりとした白い実の内側に紅色がのぞく。 ぺろり、滴った露を翡翠の舌が舐める。ほんのりと赤い、唇。 「淫靡な眺めだな」 「なんで?」 難関国文学部ストレート合格の翡翠もこういうことは知らないらしい、そう思ったら春真は無性にからかってみたくなっていた。 「なにかに似てないか? ソレ」 くすりとひとつ、含み笑い。 「え?」 「ぱくっと口を開けたとことか、とろとろとした紅色だとか」 言われて翡翠はしげしげと無花果を見つめる。かじりかけの実からまたひとすじ、露がこぼれた。 「古来から無花果は女性の一部の暗喩さ」 くっくっくっ。人の悪い笑いを喉の奥で鳴らした春真。憮然とした翡翠。 笑いながらもこんな些細な事がなんて幸せなんだろうと、実は心の底で春真は思っていたりする。 翡翠とすごす毎日が、翡翠の言葉が仕種が、そのすべてが。 まず間違ってもそんなことを口にしはしないけれど。 「そんなこと言ったって、見た事ないもん」 ずっと「先生」のこと好きだったんだからね、抗議めかして翡翠は言う。 拗ねた口調が年に似合わず可愛らしい。 不意に。 「……そう言えばハルって女の人と付き合ったことあるの?」 「そりゃ、あるさ。別に男が好きなわけじゃないからな」 「……僕は?」 ちらり、見上げる目は決して不安げなものではなかった。むしろそれは答えのわかっている言葉を投げ合って楽しんでいるかのよう。 「お前は特別」 言いながら翡翠の手の中の無花果をひとくち、奪った。視線が外れる。照れ隠しだったのかもしれない。 ついでだ、とばかりに翡翠の唇も。無花果の実よりもなお甘い、はしきやし人の唇。無花果味の唇。 「妬いたか?」 「僕がハルの一番だもん、妬きようがないよ」 苦笑めかした満足の笑みが翡翠の口元からこぼれ出す。これが見たくてからかってしまうのだ。 「俺、妬けるよ。今でも」 「え、誰に」 「新田。この無花果も新田だろ?」 う……翡翠は言葉に詰まる。春真が指摘したとおり、無花果は新田にもらったものだった。 新田は高校時代の友人だ。親友、と言ってもいい。 「でも、なんで?」 言いつつまたひとくち、無花果をかじる。 無邪気でぼうっとした所は大学生になっても変わらない、そう思ったら思わず春真の口元には苦笑が浮かんでしまう。 「俺はあの頃お前のそばにいてやることさえできなかった。あのヤロウはただ同い年の友達だってだけで側にいられた。妬くなって方がどうかしてる」 ふいっ。春真は庭へと目をそらす。開け放した窓から流れ込んだ秋の風が春真の髪を乱せば、意外にも赤くなった目元がのぞく。 そんなことを言うつもりなど、なかったのに。 一瞬後悔する。 けれどいいのかもしれない。 あの頃は教師と生徒だったかもしれないけれど、いまは。 「あの頃図書室で、職員室で、廊下で。おまえらが一緒にいるの見るたんび、俺は目眩がしそうなほど悔しかった」 「そう、だったんだ」 そんな風には見えなかったのに、小さく翡翠は呟いた。 「見せなかったんだ」 互いの気持ちを知っていても教師と生徒という壁は越えられなかった。春真の方に超える気がなかった。それだけはけじめとしてつけておきたい、そう思っていても理性とはべつの部分が胸のうちを焼く。 思い出すだけでずきり、痛む。 「僕はずぅっと、ハルのことが好きだったよ」 陳腐でありきたり。でもその言葉こそが春真の支え。優しい笑みの恋人がいま、ここにいる。 「さっきも聞いたよ」 ぶっきらぼうに言ったのは照れたから。 はるかに年下の恋人の方が自分などよりずっと人間できている、そんなわずかな苦笑とともに。 「聞き飽きた?」 「そ、聞き飽きたね」 どちらからともなく沸く笑い声。 他愛ない日常。 波乱万丈の末、手に入れた人だから、ただこんな何事もない日々がいとおしい。なによりも互いにそう思えることこそが。 「あいにくだったね。僕はまだ……」 「言い飽きてない、だろ?」 翡翠の口癖を春真がかぶせるように奪ってしまった。本当は聞き飽きてなどいやしない。 「もう!」 じゃれては悪戯に手をあげたその指を軽々捕らえて口に含んだ。 「甘いな」 無花果の味がする。 「くすぐったいよ」 二人の笑い声が風に乗って秋の空に吸い上げられていく。こんな日々がずっと続けばいい。願い、だろうか。いや、命終わるその日にそれはきっと事実になる。 「好きだ、翡翠」 めずらしい恋人の言葉に翡翠はくちづけで、答えた。 |