カイルはいま、夏樹とふたり山の中の静かな温泉宿にいた。 そもそも、夏の骨休めに 「温泉に行きたい」 と、彼が言ったのだ。 暑さが苦手で、好きな温泉も夏はとんとご無沙汰になる彼にしては本当にめずらしいことだった。 そういう訳でふたり、露天に浸かっている。 あの、箱根の宿。 夜だった。 都会の明るい夜空からは想像もできないほどの星の数。 瞬く星を眺めていたら 「目が痛いな」 そう夏樹が笑う。 せっかくの星空にもったいない、と明かりを消した露天風呂なのに、驚くほど明るかった。 「月もないのに、明るいものですね」 「ものすごい数の星だからな」 答えたあと、彼はぼそり、ちいさな声で 「敬語」 とだけ言って少しうつむく。 「ごめん」 笑ってカイルは彼の髪を指で梳いた。 それを照れ臭かったのか、夏樹はさも濡れた髪が気持ち悪い、とばかりに邪険に払う。 こうしてそばにいるのを許されて、想いをわかちあって。昨日今日ではないのにどうにもまだ敬語の癖が抜けないでいるカイルは、心の中でだけ苦笑する。 ときどき。 ほんのたまに。 不安になるのだ。本当にそばにいていいのか。 誰がなにを言おうと優しい人だから、夏樹は。だから自分の「勘違い」に気づいてもなにも言えないでいるんじゃないか、そんな馬鹿な考えが頭の隅をかすめる。 まだ、一度も言葉にしてもらった事がないから。 元々日常生活でさえ言葉の足りない人、言葉にするのが苦手な人。 まして自分の感情を口にできるような人ではない。 わかっている。 わかっていても。 「北極星ってどこだっけな」 学校で習っただろ。 彼の言葉に我に帰り、カイルは 「さぁ……どこだっけね」 おざなりな言葉で口を濁した。 「カイル?」 呼ぶ声に混ざる不安。 なんでもない、と笑って見せてもまだ彼の表情は変わらなかった。 「なぁ……俺がここ来たいって言ったの、お前驚いたみたいだったよな」 「暑いからね、少し」 「……ここではじめてお前に好きだって言ってもらった」 言って彼は遠く、星を見上げる。 いや、なにも見ていないのかもしれない。現実のものは。いま彼はあの瞬間を思い出しているのかもしれない。 「無理やり言わせたんだよな、あの時」 「言えって睨まれたからね」 「ンだよ、それ」 明るく笑って夏樹が飛沫を飛ばす。 跳ね返る水の向こう、彼の目は思ったほど笑ってはいなかった。 「……いまちゃんと思い出してみるとさ、たぶん言って欲しかったんだ、俺。お前に好きだってさ。なんとなく……そうじゃないかって、ようやく気がつき始めてたし」 「夏樹?」 「鈍いからさ。俺はずっとどういうことなのかわかってなかった。どの友達よりも、そのとき付き合ってた人よりも、いつもお前の方が優先だった。俺の一番、はいつもお前だった」 それがどういうことなのかわかってなかった。 夏樹は呟くように口にし、また星を見上げ。 まるで正視しては言えない、とでもいうように。 カイルは目眩がしていた。 湯あたりでもしたのかと思うほど、空がゆれる。星が眩しい。 そんなカイルに夏樹は視線を移すと 「たぶん、ずっと好きだったんだ、カイルが」 そう、微笑った。 「好きだってことが理解できる前に、お前がそばにいるのが当たり前になっちゃった」 照れ隠しのように彼は湯で遊ぶ。 片手で湯をすくっては目の高さまで持ち上げ、こぼす。 柔らかい明かりの下で静かに湯が反射する。 「でも、ずっと好きだったんだ、きっと」 子供のような手遊び。 水鉄砲で遊んでいる。 裏腹に静かな言葉。 いかにも彼らしい、表現。 「……あの時ここで言ってもらったときにもまだ、俺は自分の感情が理解できてなくて……いや、そういう感情があるってことすらわかってなくて、さ」 独り言めいた告白。かすかに笑みをたたえた目元が、湯だけのせいではなく赤い。 「……だから、もう一度ここに来たかった。……わかる?」 自分の言葉をきちんと理解しているか、確かめるように彼は振り向く。 振り向いて笑う。口を開く。 「『言え』」 あの時のように、あの時と同じ言葉で。 違うのは悪戯めいた笑いを浮かべながら睨んでみせる目。 だからカイルも同じように。 「『愛してます』」 と。 狂おしい想いを押さえ込んで口にしたあの晩と同じく、夏樹をそっと腕の中、抱き込んで。 指先から伝わってくる彼の鼓動も変わらない。 違うのは。 湯のぬくもり以上に温かい彼の肌のぬくもり。 不安がっていた自分が馬鹿みたいだった。 こんなにも、愛されているものを。 「……俺もカイルが好きだよ」 一瞬。 なにを言っているのかわからなかった。 耳が勝手に聞きたい言葉を聞いてしまったのかと。 ほうけたように彼の顔を見てしまう。 「だから!」 呆れて背中を叩かれて、初めて納得した。 もう一度来たかった、というのはそういう意味だったのか、と。 あの時理解していないが故に応えられなかった言葉。 再現してやり直したい、と。今度はちゃんと自分の口で言えるから、と。 本当にその口で言って、くれた。 ゆれていた星空が、不意にゆがんで流れて消えた。 「なに泣いてんだ、馬鹿」 優しい声に、それを知り。 「……いや」 大丈夫。なんでもない。 とでも言うつもりだったのだろうか。 言葉は途切れ。 彼の腕が伸びてくる。 ふだん自分がしているように、彼が自分の腕の中、抱きとる。 「泣くな、馬鹿」 照れて彼が言うはずの言葉はこれであるはずだったのに。 代わりに降りてきたのは 「好きだ、カイル」 穏やかで甘い、彼の言葉。 いつも、何度も、数えられないほどに。 カイルはこうして抱いて耳元でささやいた。 それをいま夏樹が。 「カイル」 甘えたような独特の口振り。 カイルにだけ聞かせる口調。名を呼ぶだけでも、充分に想いは伝わるというのに。 「好きだよ」 繰り返し、繰り返し。 「……どれだけ、泣かせたら気が済むんだか」 抑えつけた涙の衝動に掠れた声。 カイルは口元だけで苦笑する。 彼の声と鼓動をもっと聞いていたい。 そう、どんどんと欲深になっていく自分に。 「さぁね」 視線を合わせてこようとするのに顔を背けたカイル。 その頬に手を当て少しばかり強引に夏樹は視線をあわせ、そして笑う。 寄せられる唇。目元に。 残った涙をそうしてぬぐわれ。 「ちょっとサービス?」 笑った彼に頭から湯をかけられた。 「先でる。のぼせた」 それだけ言って湯から上がる彼の口調はすでにいつも通りのもの。 「夏樹」 呼んでも背を向けたまま掌をひらひらとふって見せるだけ。 なのに湧き上がるこの、どうしようもない幸福感。 見上げた星空はまだ少し、ゆれていた。 |