庭の梅がはらり、風に舞っては散った。
 どこからか早咲きの水仙が香ってくる。
 春まだ浅い午後だった。
 僕が夏樹の家に転がり込んで初めての、春だった。



 彼は相変わらずの定位置で障子に寄りかかったまま、ぼぅっとしている。
 ぼぅっとしたまま考え事をしているように見えて、実はただ陶然と庭を眺めているだけなのだ。
 僕はそんな彼を眺めているのが好きだった。
 あれから。
 ただ毎日がこうやってゆっくりと流れていく。
 どこか嘘のような、不安。
「毎日が幸せすぎる」
 そう言ったらきっと夏樹は笑うだろう。
 僕は笑われて、それで安心するのだ。

 ふうわり、舞い散った梅の真っ白な花びらが、黒々とした土の上に落ちていく。
 春も近かった。
「……あ」
 ちらり、夏樹が僕を見る。
 なにか言いかけ、止まった。
「くしゅん」
 と。
 袂(たもと)で口元をおおってくしゃみ。
 まるで子供みたいな、仕種。
 端麗すぎるほどの彼のそんな姿を見ることのできる、その特権に僕はしばしうっとりとしてしまう。
 また、くしゃみ。
 そうして僕はようやく夏樹に声をかけたのだった。
「風邪、ひいたんじゃない」
 と。
 僕の声に彼が困ったような顔をして肯く。
「ちょっと寒気がするな」
 なんて笑いながら。
 笑ってる場合じゃないでしょ、思わず僕は軽く夏樹の手をはたいてしまった。
「まったくだ」
 苦笑い。締め切り近いんだよなぁとぼやきつつ。
「そんな所にいるから……」
 寒気がすると言いつつもまだ広縁にいる夏樹をたしなめて立ち上がる。
 玉子酒でも作ってあげようか、そう思って。

 こん。
 ガラスが鳴った。
「……え」
 驚く事も振り向く事もなかったのだ。
「おや、風邪かい」
 言いつつ入ってきたのは露貴さんだった。
 顔を一目見ただけでそう言った露貴さんに僕は今でもちらり、嫉妬する。
 そこに僕なんかよりもずっと親しい長い時間感じずには、いられない。
 その所為かもしれない。
「あぁ久しぶりだ。甘酒、つくってやろうか」
 露貴さんの声に。
 夏樹が嬉しそうに、笑う。
「久しぶりだな」
 懐かしそうに、そう。
「酒粕、あるかい」
 ざわついた僕の事など知らぬげに彼らは笑い、確かにそこに「過去の時間」がある。
 誰よりも僕自身が一番わかっているはずなのに、それでも夏樹の笑顔が僕以外に向けられるのが嫌で仕方ない時があった。
 今が、そうだった。
「えぇ、ありますよ」
 なのに努めて明るく、言う。
 こんな焼きもちを彼が知ったら
「ばかだな」
 そう笑うから。
 笑われて、呆れられてもいい。
 僕の方を見て欲しい。
 けれど。
 夏樹は風邪でぼうっとした体を露貴さんにからかわれては懐かしげに、笑う。
「じゃあ、台所借りるよ」
 露貴さんが言ったのも半ば耳に入っていなかった。
「真人」
 訝しげな彼の声にようやく我に帰って、微笑って見せた。
「心配させないでよ」
 なんてごまかしながら。

 露貴さんが台所で動いている音がする。
 勝手知ったる他人の家、というところか。
 そんな風に思った自分に腹が立つ。
 僕がここに転がり込む前はずっとこうして露貴さんが夏樹のことを気にかけていたのだから当たり前のこと。
 まして。
露貴さんの心には今でもずぅっと夏樹ひとりが棲んでいる。棲み続けている。
 誰よりも夏樹が好きだから。だから僕にはやっぱり同じように想う露貴さんのことがわかるのだ。
 知らない顔をするには時間が短すぎた。
 気づかないふりが出来るほど大人じゃなかった。
「真人」
 嫌な考えが駆け巡りながらも僕が持ってきた丹前に彼が袖を通しつつ、声をかけてくる。
「ん」
 返した返事が自分でもおかしくなるほどの生返事。
 それが妙におかしくて、笑ってしまった。
「なんだ急に笑ったりして」
 おかしなやつだな。彼もまた、笑う。
 いよいよ出てきた熱が頬に上って。
 綺麗だ。
 普段青白いほどの頬が熱を出すとぽうと赤くなる。
 見たくはない色だけれど、なんとも言えずに綺麗だった。
「なんでもないよ」
 今度は自然に笑えた。
「布団、ひくよ」
 横になったほうがいいから、ね。言って僕は彼の横をすり抜ける。
 すり抜け様に彼の髪をふわり、指で梳いた。

「うん……」
 懐かしい。夏樹が笑う。
 布団の上に半身を起こして熱々の甘酒をすすってはすっかり病人をしている。
「だろう」
 露貴さんはそんな夏樹の側近くに陣取ってはご満悦だった。
 僕は居間からそれを眺めている。
 別にすねたわけじゃない。焼きもちももう、なかった。



 懐かしい。
 夏樹はそう言ったのだ。
 ようやく僕はそこに気づいた。
 あんまり穏やかに流れていく日々に僕は忘れてしまっていた。
 夏樹がすごした少年時代のこと。
 忌まわしい母親との、過去。
 それよりもずっとずっと温かい、やさしい思い出。
 露貴さんの、こと。
 彼にとって家族。
 そう言いうるのはただひとり、露貴さんだけだったこと。
 だから。
 露貴さん相手になにも苛つく事はないのだ。
 露貴さんが夏樹をどれほど愛していようとも。
 夏樹にとって露貴さんは懐かしくも慕わしい家族に過ぎないのだから。

 隣の寝間から漂ってくる生姜の香り。
 時折咳き込みながらも笑いさざめく、ふたりの声。
 こんな焼きもちは、そう
「新妻が旦那の母親に妬くような……」
 ものかな。
 そう思ったら急に笑ってしまった。
「真人」
 怪訝な声で夏樹が問う。
「どうした」
 露貴さんの声がそこにかぶさる。
 なんだ。
 声を聞いて。
 僕はいきなりわかった。
 露貴さんにもけっこう大事にされているじゃないか、僕は。
 そう。
 露貴さんは。
 自分の想いもなにも全部僕にそれとなく見せた上で、その上で夏樹が僕のものだ、そう認めてくれているじゃないか。
 ばかばかしい。一瞬でもこの人相手に妬いた自分がばかばかしい。
 まだまだ人間できてない。
 苦笑がもれる。
「なんでもないよ、思い出し笑い」
 ふたりにそう言い捨てまたくすり、笑う。
「やらしい子だねぇ」
 露貴さんがちらり横目で夏樹を見て、にやりとする。
 なまじ言いがかりでもないものだから彼はあらぬほうに視線をやりつつ肩をすくめて。
「ちぇ。惚気てやがる」
 露貴さんがぼやいた。

「帰るよ」
 酷くしてもいけない。そう言って露貴さんが立ち上がる。
「あ……」
 ちらり。僕の頭に考えがよぎる。
 甘酒の作り方、習おうか、と。
「ん、どうした」
 ふわりやさしい目をして尋ね返す露貴さんに。
「ちょっと待って」
 言い置いて。
 はさみ片手に戻ればもう広縁から庭に降りている。
 なにをするのかと見ている前でぱちり、梅の一枝を切って渡した。
「お土産です」
 渡した僕に露貴さんが苦笑する。
「ばれてたか」
「なんのことです」
 知ってはいたけど知らんふり。今日からようやくできそうだ。
「さて、ねェ」
 露貴さんまで人の悪げな笑い顔。
「ありがたくもらっとくよ」
 まるでなにかの劇のよう。
 梅の一枝に顔寄せて、香り愛でつつ歩いていった。

「あいつあんなに梅、好きだったか」
 寝間に戻れば眺めていたのか夏樹が不審げに尋ねるわけでもなく問うてくる。
「さぁ。でもよく眺めていたからね」
「気づかなかったな」
 よく見てる、彼が笑う。
 でも。
 眺めていたのは梅じゃない、それを僕は知っている。
 露貴さんが眺めていたのは。
 その木の下で花を愛でる、夏樹の姿。
 目を閉じて、馥郁たる香りを心ゆくまま愛でていた夏樹の、姿。
 ようやく僕は知らん顔をしていられる。時々ちょっとこんな意地悪をしながら。
 くすり、笑ったのは。
 安堵。
 かもしれない。
「変なやつだ」
 夏樹が呆れる。
 呆れられても僕は、理由を言う気にはならなかった。
 たぶん、それでいい。
「なぁ」
 彼の少し甘えたような、声。
 ことり、傍らの湯飲みを持ち上げて、微笑う。
 ちょっと、照れ臭げに。
 微笑う。
「玉子酒、つくってくれないか」
「え……」
 露貴の甘酒も懐かしいけど
「でもお前の味の方がいい」
 ぬけぬけと。
 夏樹が言う。

 言って彼は自分で照れては、笑った。




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