もうすぐシュヴァルツェンが大学から帰ってくるから夕食でも食べていけ、と水野は誘ってくれたけれど高橋は断った。
 いま行動しなかったら、動けなくなってしまう。そんな気がしていた。水野もそれと察したのか、しつこくは誘わない。
 もっとも、しつこく誘う水野、など考えにくかったけれど。誘ってくれたこと自体、嘘のようだ。高橋はすっかり日も暮れた街路を歩きつつ思う。
 ふらりと電車に乗った。記憶をたどって歩いた。それでもまだ迷っている。ここまできてまだ迷っている。
 住宅街からは夕食の匂い。人が動く物音と、子供の声。長閑で、現実感がなさすぎた。
 高橋の足がぴたりと止まる。表札を見る。確かめる。ゆっくり息を吸い、インターホンに手を伸ばしかけ、とまる。
「……無理かも」
 呟いて、自嘲した。ここまできてなにをしているのか、と思う。きてしまったのだから実行すればいい。それが、できそうにない自分を嘲笑う。
 ぎゅっと拳を握って立ち尽くしていた。なにをしたいのだろう。笹嶋をどうしたいのだろう。笹嶋は、どうしたいのだろう。
「笹嶋……」
 彼の夢を壊してしまった。怒っているのかもしれないと不意に思う。怒っているのは自分だとも思う。
 ずっと笹嶋が追いかけていた少女。馬鹿馬鹿しいことにこの自分。
 そこから、笹嶋はどうしたいのだろうか。自分は。気づけば手が携帯電話をまさぐっていた。まるで無意識のよう、指が動く。まだ決心はつかないというのに。
 決心など、いつになってもつけることができないかもしれない。高橋は皮肉に笑って、今度こそ自分の意思で電話をかけた。短いコール音。相手はすぐに出る。それにほっとした。
「……先輩? どう、したんすか」
 電話をかけること自体が珍しい、と笹嶋は戸惑っているようだった。実際そのとおりだと高橋も思う。後輩相手に用もないのに電話をかけたことなどいまだかつてなかった。
「……ちょっと、話できるか」
「なんの、話すか」
「なん、だろうな……。色々、かな」
 ためらいがたっぷりと含まれた言葉。お互いに。電話の向こう、笹嶋がどんな顔をしているのか見たい、と不意に強く思った。
「だめか、笹嶋」
 彼のためらいを押す。先ほど水野に背中を押してもらったように。彼は押した、とは思っていないだろう。自分の信念を話しただけ。水野はきっとそう言うに違いない。
 だが高橋にはその言葉が必要だった。いま、ようやくわかる。先に進みたかった。笹嶋と向かい合いたかった。
「……わかりました。なんですか、先輩」
 どこか冷たい声に高橋はひるみそうになる。それを強いて抑えて息を吸う。
「直接、会えないか。顔、見たい」
 ぽつりと呟かれた言葉。それが笹嶋にどう聞こえるのだろう。高橋はできればよくとってほしい、と思う。
「いま、どこに……?」
 ふっと笹嶋の言葉の棘が抜けた気がした。気のせいかもしれない。ただ諦めただけかもしれない。それでも高橋は口許がほころぶのを感じていた。
「……お前ん家の前」
 突然、電話が切られた。ぶつり、とした切断音に、高橋は呆然とする。酷く、捨てられた気がした。手の中の携帯に目を落とす。
 終わってしまった。そう思う。まだはじまってもいなかったのに。これ以上笹嶋を煩わせたくなくて背を返せば、背後に光。
「先輩!」
 玄関に明かり。開かれるドア。明かりの中、目を見開いた笹嶋。
「あぁ……」
 顔を見た途端、なにも言えなくなった。何を言ったらいいのか、わからなくなった。鼓動が弾んで、笹嶋の表情を見ることもできない。
「わざわざ、うちまで……」
「うん」
「上がって、ください。でも――」
 一度言葉を切り、笹嶋は挑戦的に高橋を見た。高橋は目を瞬いてそんな彼を見やる。なにを言いたいのかわからなかった。
「両親共に夜勤で、いまうちにいるの、俺だけっすよ。それでも、いいんですか。先輩」
 なにを言っているのか、わからなかった。ただこくりとうなずいた高橋に、笹嶋が小さく溜息をついた音が聞こえる。
 無言で高橋は笹嶋の背中に従った。自分の口がお邪魔しますだの、コーヒーがいいだの言っているのは聞こえていたけれど、意味がわからない。ぼんやりと、笹嶋だけを目で追いかけていた。
 コーヒーを淹れてくる、と言って笹嶋が席をはずす。ようやくそこでどうやらここは彼の部屋らしい、と気づいた。
「笹嶋……」
 思わず本棚を眺める。好きだといっていた本。自分が薦めた本。題名をぼうっと目で追った。ハンガーにかけられた制服から、なぜとなく目をそらす。
 手元を見やれば、自分の手が震えていた。呆気にとられて、笑えてしまった。ずいぶん、精神の均衡を崩している、と冷静などこかが言う。
 ローテーブルに手をついて、意識して息を整えた。それまでカーペットの上に座っていることにも、気づかなかった。笹嶋が座れ、と言っていたような記憶がかすかにある。
「……先輩」
 ドアが開いて笹嶋が顔を覗かせる。高橋はまだ黙ったままうなずいた。しばらくは向かい合ってコーヒーをすすっていた。
「読んだよ」
 高橋が言う。言いたいことが、わからなかった。今度無言でうなずくのは、笹嶋の番だった。
「花田が、ちゃんと終わらせろって言ってる。三日待つって」
「……終わってますよ」
「本当にか。俺には、そう思えなかった。花田にも」
「花田先輩はいいですよ! 先輩、なにしにきたんですか。俺は――」
 言うべき言葉を失って笹嶋は唇を噛む。カップを握り締める指先が白かった。
「ごめんな、笹嶋」
「なにがですか!」
「お前の夢、壊しちまったよな」
「そんなことは……」
 顔をそむけた。だから、やはり笹嶋を傷つけたのだと高橋は痛感する。いま、目の前にするまではそれほど酷いことをしたとは思っていなかった。
「いやだったんだ。急に、物凄くいやになった、そんな感じかもしれない」
「なにが、すか」
 掠れ声に目を上げれば、笹嶋は瞬きをしていた。悔し泣きをしているのかもしれない。思った途端、我を失いそうになった。
「……お前が、あまねちゃんのことばっかり話すのが、かな」
 口にしてはっきりわかった。それが、間違いなく本心だった。
「先輩……」
 呆然とした笹嶋の顔。高橋は見ていられなくて目をそらす。急に、不安が顔をもたげた。笹嶋が、欲しかったのはあまねちゃんであって、高橋周ではない。たぶん。
「シュウ先輩」
 心臓が、飛び跳ねた。いつの間にか隣に移ってきた笹嶋が、手をとっている。近々と、顔を見られている。
「離せ」
 小さな声に、笹嶋は首を振る。笹嶋が尋ねたことが、今更になって意味をなす。この家にいるのは自分たちだけ。
「いやだ」
 手を離させようとすれば、しっかり握られた。唇を引き結んで、笹嶋が身を乗り出す。その目に恐怖と、憧れを見た。
「頼む――」
 離してくれ、と最後まで言えなかった。くらりと目が回る。視界がかすんで体が揺らぐ。笹嶋が叫んだ気がした。
 手を振ったような気がする。大丈夫だと呟いた気がする。笹嶋が何もせず座っているのだから、実際はたいした時間ではないのだろう。高橋はカーペットに横になっていた。
「シュウ先輩……」
「泣くな。平気……じゃないけど、心配はない」
「だって!」
 きゅっと手を握られた。温かい手が心強くて握り返せば、笹嶋の顔がほころぶ。それを見ているのが、嬉しかった。
「あのな。俺の体、驚かされるとだめなの。頼むから――」
 言った瞬間、笹嶋が泣きそうになった。自分のせいだと目が言っている。そうではない、と言ってやりたかった。
「笹嶋」
「ん、なんすか。先輩」
「膝貸せ」
 笹嶋の返答を待たず、彼の膝に這い寄った。おたおたする笹嶋の身じろぎを頬に感じる。目を閉じれば、笹嶋のぬくもり。それにまたどきりとして、高橋は苦笑する。
「シュウ先輩」
「なに」
「なんで……」
「いや? 笹嶋」
「んなわけないっす! 先輩、シュウ先輩が。俺」
 言葉にならなかった。高橋は目を閉じたままうなずく。聞いていてもよかった。聞かなくてもよかった。どちらでも、同じだった。
「笹嶋」
「うい」
「あまねちゃんは、手に入らなかったけど、俺じゃだめか?」
 笹嶋は答えない。その代わり、手が髪に置かれた。言葉もなく、ゆっくりと撫でている手。心地良くて、くすぐったい。
「シュウ先輩」
「うん」
「周さんって、呼んでいい?」
「……人前ではやめろよ」
「ういっす」
 嬉しそうな声がした。見上げれば、泣き笑いの笹嶋の顔。それを見た高橋もまた、口許から始まって、顔中に笑みが浮かぶのを感じる。
「周さん」
 確かめるよう呼ばれて、高橋は答えられなかった。頬を彼の指が掠める。もう一度。何度も。ゆっくりと掌が頬を包んだ。高橋はじっと笹嶋を見ていた。
「……目ぐらい閉じてくれると、嬉しいっす」
 照れた声音に、高橋は赤面する。飛び跳ねそうになる心臓を必死で抑えて息をする。唇を噛んで目を閉じた。笹嶋の唇は想像していたよりずっと柔らかかった。




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