「忙しいんだよ、わかってるだろ。お前一人で行けって」 夏の暑い街路を歩きつつ、翡翠の脳裏に春真の声が蘇る。腹が立って仕方なかった。 「わかってるけどさ」 確かに教師の春真は忙しい。この時期は特に忙しい。期末試験の真っ最中とあっては自分にかまけている暇などないことくらい、理解している。 「それにしたって、物の言い方ってものがあるじゃない」 気が立っているからだ、と何度心のうちに言ってみても腹が立つものは仕方ない。アスファルトを思わず蹴りつけて歩いた。 そもそも、気後れしているのだ。水野の実家に行くのは、少しだけ苦手だ。当たり前だ、と思っている。 春真の双子の兄夫婦も、小さな甥も快く迎えてくれるけれど、少しだけいたたまれない思いがする。こんなときほんの少しだけ、自分が嫌になる。 「もしもなぁ」 自分が女の子に生まれていたならば。春真とちゃんとした結婚なんかをして、嫁として彼の家族に迎えてもらえるならば。 「こんな気分にならないかな」 苦く呟く。どんよりとした曇り空は、熱気だけを伝えてきて、まるで翡翠自身の心のようだった。 わかっては、いるのだ。性別などどうでもいい、春真が選んだ相手だから。そう心から思って迎えてくれていることはわかっている。 「それとこれとは別」 事実と、自分の心と。持て余している。そう思う。新田あたりに言えばきっと青春の悩みだ、と茶化して笑ってくれるだろう。相談する気にもなれないあたり、深刻だ、と感じる。 「せんせーがわるいんだ」 昔のよう、呼んでみて翡翠は吹き出した。彼を先生と呼ばなくなってどれくらい経つだろう。長かったような、あっという間のような。 「ずっと――」 続いていくのだろうか、こんな気持ちが。それはそれでいやだった。彼のそばにはいたいけれど、それならばもっとちゃんと気持ちの整理をしなければ。 きゅっと拳を握り締め、背筋を伸ばす。うなだれて歩いていくのはいやだった。 「強くなったね、僕も」 高校生のころはもっとずっと純情だった気がする。いつの間にこんなに押しが強くなってしまったのだろう。 春真は変わっていく自分が嫌いになったりしないのだろうか。不安になって尋ねたことがあった。彼は笑ってこう言うだけだった。 「お前の押しが強くなった? そりゃ、俺のせいだろうな」 のらくらとしてばかりだから。そう春真はもう一度笑って頭を撫でてくれた。子供扱いに憤慨したのも懐かしい。 「仕方ないか」 なにがどう仕方ないのかわからないまま呟いて、ふに落ちた。自分はこういう人間だ。春真はああいう男だ。互いにわかっていて、変わっていったとしても寄せる思いだけは変わらなくて。 「あ……」 自分たちだけではなかった。きっとそれは春真の兄たちも同じこと。妙に納得した。これでいいのかもしれない、と。 見上げれば、ちょうど水野の家の前。タイミングの良さに苦笑して、門をくぐった。用事は家族にあるわけではないのだが、無視するわけなど当然行かず、翡翠は玄関脇の呼び鈴に手をかける。 と、ちょうどだった。玄関が開いたのは。お互い驚いて一歩を引く。それから顔を見合わせ笑いあう。 「なんだ、そろそろかなと思って離れのクーラー入れとこうかと思ったのに」 春真の兄、春樹だった。よくよく見れば同じ造作なものの、一見まるで似ていない。 「あ、えと。こんにちは」 「はいはい。こんにちは。で、今日は。史料?」 「はい、研究用に貸してもらえれば、と思って」 翡翠はいまだ大学に残って琥珀研究をしている。作家・篠原忍の実家でもある水野家に、琥珀の資料も収められているのだからここに借りに来るのは当然だった。 「もちろん、かまわないよ。君は大事にしてくれるのわかってるからね」 「ありがとうございます」 言いつつ庭先を抜けて離れへと。子供時代の篠原も使っていた、と言う離れは今では倉庫のような有様だ。 「いずれなんとかしないとね」 「史料ですか」 「うん、そう。野毛の記念館だけじゃ、これって収めきれないじゃん? かといってここの放りっ込みぱなしって言うのもねぇ。夏樹が大きくなったら、ここを使いたがると思うんだよね」 「子供部屋、ですか?」 「ううん、子供部屋あっちにあるよ」 言って春樹は家のほうを指差した。それから肩をすくめて溜息をつく。 「どうもね、あの子はなんと言うか、ちょっと普通じゃないって言うか。子供の癖に人嫌いって、あるのかなぁ」 「それって人見知りって言いませんか?」 「そんな可愛いもんかい」 ぷいと頬を膨らませて言うあたり、これで人の親だというのだからおかしなものだ、と翡翠は思う。 「だから、きっとここを使いたがるだろうなと思ってね。ハルに相談したらどうも伯父さんに感じが似てるみたいだって言ってたし」 「そんなことが……」 「うん、つけた名前が悪かったかもね」 からりと言って何事もなかった顔をする春樹に翡翠は絶句し、思わず溜息をつく。口ではなにを言っていても、これで溺愛しているのだから、と翡翠はあえて何も言わないことにした。 「史料探し、手伝おうか」 「いえ……大丈夫だと思います」 離れには、何度となくきている。まるで自宅のよう、どこになにがあるかわかっていた。 「そうか、うん。そうだね」 曖昧に笑って春樹が棚に手をついた、そのときだった。ぐらりと棚の上の箱が傾ぐ。あの中は大量の本が入っている、思う間もなく翡翠は飛び出す。 「お兄さん!」 咄嗟に手を引き一緒になって転がった。舞い上がる埃と、崩れた本。壊れた箱。呆然として見合わせていた顔。不意に春樹の顔がほころぶ。 「兄さんって言ってくれた」 「え……あ……。すい――」 「謝らない。嬉しかったんだから。ほら、やっぱり手伝うよ。片付けもしないといけなくなっちゃったしね」 「……はい」 照れくさくて、顔が見られなかった。黙々と片づけをするしか出来なかった。 「なんか落ちたよ?」 言われて初めて気づいた。本の間から、栞だろうか。何かが落ちている。拾い上げた翡翠の口許が緩んだ。 「どうしたの」 「……七夕の、短冊みたいです」 言って本を確かめる。篠原の蔵書だった。意外と可愛らしいことをする人だ、と思えば嬉しくなってくる。 「見せて。あれ……。これ、一枚じゃないみたいだ。くっついてるね」 慎重にはがす春樹の手元を固唾を呑んで見つめてしまっていた。本に押されて張り付いてしまっていただけなのだろう。糊がついているわけではなかったようで、案外簡単にはがれる。 「これ、どっちがどっちかな。ちょっとわからないなぁ。ハルに聞けばわかるよね」 明らかに筆跡の違う二枚の短冊。翡翠は受け取っては笑みを浮かべた。 「わかります。こっちが篠原の字。こっちが、琥珀の字、です」 「おや、さすがだね」 褒めてくれている声が遠くに聞こえる。確かにこの人たちは生きていたのだという実感。この人たちが我が子のように愛した人と生きている、その実感。 「これ、借りていっていいですか」 本に挟んだまま、借りてきた。本当はあまりいいことではないだろう、と思っている。研究者に知れたら大事だな、とも思っている。 「いいもん。研究対象じゃないもん。ハルの親だもん」 何度も繰り返し、翡翠は短冊を指先で撫でる。短冊は、すでに笹につけられていた。帰ってきた春真がこれを見てなにを言うだろう。とても楽しみで、少し不安だ。 「あ――」 「ん? 七夕飾りか。まめだな、お前」 「うん、まぁ。お帰り」 暑いのだろう、額を指で拭っている姿を見たら、今朝方の言い争いを思い出してしまって、顔が見づらかった。 「おい、翡翠。これ……」 「怒る? 怒るだろうと思ったけど。僕はそうしたかったの。すぐしまうから――」 「ちょっと待てって。怒ってないから、そう言うな」 苦笑の気配に気がそげた。振り返れば手招きをする春真。渋々よれば、手をつかまれた。その場に座らせられてはもう、おしまいだった。こうなってはいつまでも怒ってなどいられない。 「これ、いつのだろうなぁ」 大事そうに春真の指が短冊を掠めた。 「知らない?」 「あぁ……。俺が引き取られる前か、後か」 「……そっか」 懐かしそうに春真が短冊を見ていた。きっと見ているのは二人の親の姿だろう。その横顔に、翡翠は疲労の影を見た。 思わず息を飲む。それを隠したくて息を止めた。気づかなかった自分が許しがたい。本当に、言い訳などではなく頬がやつれるほど忙しかったのだ、と知って。 「なぁ……。後で俺たちも短冊、書かないか」 「いいね。でも、その前に夕飯にしようよ。ハル、ひとっぷろ浴びてきなよ、さっぱりするから。それから夕飯。なにがいい? 好きなものしてあげる」 言いつつ立った翡翠を春真は見上げた。そっぽを向いているのは、自分の言葉の含みに照れたせいか。どんどん大人になっていく彼が、愛おしかった。変わって欲しくないなど、少しも思っていないことをいつの日か翡翠はわかってくれるだろうか。 翡翠に風呂に追い立てられつつ、春真は決めた。短冊にきっとそのことを書こう、と。 |