薄曇りの空を見上げ、カイルは店を出た。手には一本のワイン。いささか高価なそれを
「たまには良いものが飲みたいから」
 と、自分でも嘘とわかっている理由を自分の胸にささやいて、買った。
 大学に入ったときに親の遺産で買ったマンションの一室に戻っても誰がいるわけでもない。
 いるわけはない、とわかっているのに今日ばかりは帰らずにいられない。帰って誰もいないのを知って気分が落ち込むのも、わかっていることなのだけれど。

 案の定、部屋には誰もいなかった。
 誰も、とはいえ、鍵を渡してあるのは一人きり。夏樹に他ならない。
自宅にいるのが嫌になると彼は決まってここにきた。それがカイルの部屋であるせいか、彼の両親も夏樹がここに来ることを反対はしない。むしろここにいるならば安心、と思っている節もあった。
 だから夏樹には部屋の鍵を渡してある。そうでなくとも、渡したかもしれない。カイルは思う。
 以前、まだ夏樹が高校生だったころ、雨の吹き込むマンションの廊下で立ち尽くして待っていたことがあった。制服もびっしょり濡れて、それでもカイルの帰りを持っていた。
 なにがあったのか、いまだにその時のことを夏樹は語らない。けれど余程いやにことがあったことだけは察しがつく。
 以来、カイルは彼に部屋の鍵を持たせていた。
 だから、いるかと思った。
 いや違う、思いたかった。
 帰った部屋はしんとして昼間の熱気に多少むっとしていた。
「いるわけないな」
 自嘲の呟きが口から漏れる。
 こんな一人きりのときでさえ日本語を使うようになって、久しい。それもこれも彼が「日本にいるのだから日本語で話せ」と言った、ただそれだけのことから。きっと言った本人でさえ忘れているだろう一言がカイルの人生さえ、動かしている。
 冷蔵庫を開け、カイルは買ったばかりのワインを放り込む。
 良いワインが欲しかった。けれどこの春、大学を卒業したばかりのカイルにそうそう高いワインが買えるはずもない。バイト代を貯めに貯めて買ったのはシャルツホーフベルガーのアウスレーゼ。アウスレーゼクラスにしなければもっと手頃に買えただろう。
 けれどどうしてもアウスレーゼが欲しかった。それより上には手が出ない、というのはともかくも、故国ではこのクラスのワインを祝い事に使う。
 カイルは祝いたかった。この歳で、いや、出会ったときにすでに「ただ一人の人」と思い定めた相手の二十歳の誕生日を祝いたかった。
 出来得ることならば二人で……など思わないでもなかったけれど、さすがにそう上手くはいかないことくらい、わかっている。
 だいたい相手には両親も健在ならば親族もいやというほどいる。多少、血のつながりがあるとはいえ、一介の友人ごときが二人で祝いたいなど口が裂けても言えるものではない。
 せめてもの希望は、それを嫌がった夏樹が抜け出して部屋に来ている、ということくらい。あっさり打ち破られはしたけれど。
「無駄になるかな」
 いずれそう遠くないうちに、夏樹に飲ませてやればいい、そうも思う。
「いや……」
 それは出来ない相談だ、カイルは思い直す。育った環境が違うどころか国が違うのだから二人はよく「自分の常識」を話し合った。習慣や儀礼、言葉の使い方やその意図、そんなことまで話し合ったのだ。
 カイルはそれにどれだけ助けられたかしれない。だがカイルが教わった分、夏樹のも机上の知識ではあれどドイツの知識がある。だからアウスレーゼの意味に気づく。
 言葉の数の多い人ではない。その分、夏樹は敏い。
 気づけばこのワインを用意したカイルに応えられなかった自分、というものを少年めいた真っ直ぐさで責めるだろう。
 そんなことをして欲しくなかった。
 作り付けのカウンターの前に腰を下ろし煙草に火をつける。紫煙が立ちのぼるのを見つつ
「帰るときにあげるか……」
 そう、一人ごちた。
 そもそも日本にとどまっている理由はない。高校だけで帰るつもりだった。兄の反対を押し切って逃げるように留学してきたけれど、故国を捨て去るつもりも別の国に骨を埋める気もさらさらなかったのだ。
 それが気づけば大学まで終えてしまっている。
 もう、とどまっていられる理由は何もない。とどまっていたい、と思ってもどうしたらいいかわからない。
 大学院に進むという手はあった。けれど自分のような不純な動機で研究者を志す人の貴重な席を削るには良心がうずく。
 結局こうして無為な日々を送っている。何もしていないのだから早晩、兄から帰還しろとの連絡が来るだろう。いまだ独り立ちしてはいない自分はそれを拒めない。
 帰らざるをえない。
 つまり、夏樹とも別れなければならない。
 自分がドイツに帰ってしまったら。カイルは近頃そんな想像をする。最初の一・二年は連絡も絶えないだろう。長期休暇の時には遊びにきてくれるかもしれない。
 だがどうだろうか。彼には彼の新しい生活が、自分には自分の追われる生活がある。
「早、二十三歳で余生か」
 口にしてみて知らず笑った。確かに余生かもしれない。
 彼と引き離された自分に存在意義があるとは思えない。
 愛して欲しいなどという大それたことは願わない。ただそばにいたい。補佐したい。彼の最も重宝な友人でありたい。あいつに任せれば大丈夫、そう言われるだけでいい。
 ドイツに帰ったら、それも叶わない。
 身じろぎとともに灰がカウンターの上に落ちた。煙草が一本灰になる間、ただじっとそうして悲観に身を浸していた。
 何も出来ない自分にはそれが、ふさわしい、そんな気がして。
 悲嘆ついでとばかりにカイルは座を立つ。短くなってしまった煙草を灰皿に押し付け揉み消した。
 落ち込んでいるときは台所に立つに限る。
 大学生活の間にカイルはそれを学んだ。
 もともと自炊に苦労する性格ではない。むしろ料理は好きだった。
 料理をしていると嫌なことが忘れられる、というわけではない。ただ没頭している間だけ、少し追いやっていられる、というだけ。それにこんなときに失敗したりしたらそのほうがもっと惨めでより情けなくなる。そして出来上がった料理の数々を見てさらに落ち込む。そんなのも悪くない、など嘯きながら。
 はじめは故国のものばかりを作っていた。
 夏樹が部屋に訪ねてくるようになって彼の好きなものを作り始めた。当初は醤油の加減も出汁のとり方もわからなくて難儀したものだった。
 それでも夏樹の
「美味いよ」
 の一言が聞きたいばかりに何冊もの本を買い、多大な材料費を無駄にし、練習した。
 おかげでいまは世間一般に家庭料理、と言われるもの程度なら難なくこなす。
 和食もすっかり好きになった。
「さて」
 何を作ろうか。手の込んだものがいい、カイルがそう思ったとき。
 玄関のチャイムが鳴った。
「こんな時間に」
 不審に思わないでもない。友人たちが訪問してくるにはいささか遅い。それに訪問しあう友人などそれほどいない。
 怪訝な顔をして玄関に向かう間に小さな音をカイルの耳は聞いていた。
 鍵のまわる音。
「え……」
 ドアの向こう、夏樹が立っていた。
「夏樹さん……」
 驚くカイルに
「なかなか出てこないからいないのかと思った」
 それだけ言って夏樹はカイルの横をすり抜けリビングへ。後を追いかけたカイルが見たのは長々とソファに伸びた彼の姿。
「祝宴があったでしょうにどうしたんです」
 聞こうと思って、やめた。
 疲れた顔をしていたから。
 夏樹の言葉数が少なくなるのは決まって親しい人の前。幸いにしてカイルはその中に入っている。
 しかし今日の祝いの席に来ていた親類はどうだろうか。あえて言えば両親は。
 きっと夏樹は愛想のいい顔をして「いい子」を演じたに違いない。
「おなかは空いてませんか。有り合わせだったらありますよ」
 言うカイルにちらり目をやり、黙ってソファに顔を埋めた。
 あれもこれもと嫌になるほど食べさせられたらしい。
 それと悟ってカイルは苦笑する。
 彼の両親にしても可愛い長子の成人なのだ、いささか過保護なほど祝ったとしても仕方ない。
 成人した息子のほうは呆れ果てているとしたとしても。
 そんなことを思っているカイルを知ってか知らずか夏樹の手には煙草とライターが握られて。
 おや、と思えばカウンターに置いたままになっていた自分の煙草だった。通り抜ける際に持ってきたらしい。
 所在なげにもてあそんでいる彼に少しばかり目をやってカイルはダイニングまで灰皿を取りに戻った。
 火をつけるかすかな音が聞こえた。
 なんとなく目の前で火をつけるには気恥ずかしいのか。それがカイルには微笑ましい。
「ここ、置きますよ」
 ソファの前に灰皿を置いたカイルに照れくさげな顔をして、笑った。
 寝そべったまま、吸い込まないよう煙草をくゆらせている姿が妙に大人びて見えどきりとする。
 出逢ったころから大人びた少年だった。
 肩肘張って張り詰めて、自分が進まざるを得ない道というものを見定めている人だった。
 そのせいか、あるいはずっとそばにいたせいかはわからない。
 カイルはどうやら彼の成長を見落としていたようだった。
 もう、あのころは幼い少年ではない。
 近い将来、惚れ惚れとするようないい男になるだろう。
 それなのに自分はそれを見ることが出来ない。
 想像の中の出来事ではない、いま改めてそれを実感する。つらい、などと言う言葉では表しようのない事実を。
「辛いな」
 一瞬、辛いをつらいと聞き違えてぎょっとした。
「煙草、美味い?」
 言いつつ灰皿に押し付け消す彼の言葉にようやく内心を見透かされたのではないと気づいて安堵した。
「私は好きですよ」
「でも、見たことない」
 言われて思う。そういえば彼の前で煙草に火をつけることはなかった。なぜかはわからない。
「吸わない人の前で吸う気はないですよ」
 とってつけたような理由だと夏樹も感じたのか、顔をしかめて見せたけれど、カイル自身、理由などわからないのだ。
「なぁ」
 一度こうして言葉を切るとき。
 カイルは知っている。彼が言い難いことを口にするとき。
 何を聞こうとしているのだろうか。それが怖い。けれどせかせば彼は口を閉ざしてしまう。ただ、待つしかない。
 しばらくして夏樹が口にしたのは
「これからどうするの」
 その、一言。
 帰らざるをえない、そう思っているカイルが最も訊かれたくなく、また訊いてもらわねば口に出来ないであろうこと。
 良い機会だから言ってしまおう、そう覚悟を決めたとき、機先を制するよう、夏樹が言葉を継いだ。
「いずれ親父の会社、継ぐと思う。たぶんそう遠いことじゃない」
 言いながら彼は体を起こし、じっとカイルの目を見た。それから照れたように視線をそらし言葉を続ける。
「ビザ、取り直してきて欲しい」
 ライターを取って火をつけようとするけれど、空回りするばかりで火がつかない。動揺しているのか。
 カイルの顔を見ようとはせず、答えを聞こうともしない。
 ただ、煙草をくわえて火をつけようとしていた。
 ビザを。
 彼はそう言ったのか。当然いまは勉学に励むために来ているという名目であって、就職することは出来ない。
 それを取り直してこい、と言うことは。
 そばにいていいのか。いずれ会社を背負って立つ彼の片腕となれるよう、今から職についておけ、ということか。
「早急に」
 カイルもまたそれだけを言えば、ようやくこちらを向いた夏樹が、ほっとしたように笑った。
 この笑顔を見られる場所にいられる、それで充分。一瞬カイルは目を閉じ、そして目を開けたときには笑みを浮かべていた。
「丁度、ワインがあります。飲みますか」
 目で笑って肯いた彼にカイルも肯いて冷えたワインにグラスを二つ、持ってくる。
 栓を抜いて注ぎ分けグラスをかかげて、そのまま飲んだ。
 誕生日おめでとう、あるいは成人の記念に。
 そう言って言えないことはなかった。けれどなぜか言う気がしなくなってしまった。そのために買ったワインだというのに。
「何が『丁度』だよ」
 夏樹の指がラベルの文字をたどっていた。
 にやり笑って見せる夏樹にカイルは苦笑とともにそっと片目をつぶって見せ。
「あなたの前途に」
 言ってはもう一度グラスをかかげる。
「お互いの、と言うことにしておこうよ」
 かかげたグラスにガラスをあわせれば澄んだ音がする。
 夏樹のたった一言で人生を決めた。そのことにカイルは一片の後悔もなかった。これから先、どのようなことがあろうとも今日この日の選択を悔いることはない、そう思う。
 夏樹の笑顔が見られるならそれで充分、と。大それたことなど、そう思いつつ。




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