夏樹がいつまでもいては仕事のない社員まで帰れない、だからカイルだけが残業する、と言うことがままある。
 今夜もそうだった。
 残業続きで今朝は少しだけアイツ、疲れた顔をしていたな、夏樹は思う。
 普段なにもしないで任せ切りの夏樹もこんなときくらい何かしてやりたい、そう思わないでもないのだけれど、いかんせん家事の能力には欠けた彼のこと、まともな食事ひとつ作ってやれない。
 いつもいつもカイルはなにくれとなく自分の世話をしてくれると言うのに、疲れたカイルに食事の手間までかけさせたくはない。
 いや、違う。こんな時こそ、自分が彼のためになる事をしたい。
 だから彼は一本の電話をかけた。



「はい、こちらは……」
「あの、その。夏樹です」
 そもそも電話は苦手だ。仕事ならば仕方ない、で我慢はするけれど、決して自分から好んでかけたりはしない。
 まして私事ともなればおして知るべし、というもの。
「え……? あら!」
 だから相手が自分の事を認識するまでの時間がどれほど長い、と思ったことか。
 加えて母語で話してはいないのだ。
 たかが名乗っただけとは言え、相手にきちんと通じているかどうかわかったものではない。
「コンラートは元気かしら」
 そんなこちらの気を知りもせず相手の女性は朗らかに話しかけ。
「少し仕事が忙しいですが、元気です」
「あら可哀相に。でも日本では仕事がたくさんあるのは幸せな事なんでしょう?」
「一般的に日本人はそう思います」
 言った夏樹の言葉に彼女は笑い、そんなに緊張して、とまた笑った。
「電話でこうやって話すのは、初めてですから」
 つい苦笑いしつつ言い訳してしまう。
 事実、会ったことなら何度かある。夏樹が堅苦しく「フラウ・シュヴァルツェン」と呼ぶのに顔をしかめてから「ヒルダでいいわ」と笑った。
 ヒルデガルド・フォン・シュヴァルツェン。カイルの兄、ヘルベルトの妻こそ、電話の相手だった。
「聞きたい事があって」
「私でわかることならなんでもどうぞ」
 明るく言ってくれるのに気が楽になって夏樹は話を続け。
「カイルの……好きな食べ物って、なにかありますか」
「あなたの方がよく知ってるでしょう」
「それはそう……いえ、そうじゃなくて。故郷の食べ物で好きなもの、かつ俺が作れるようなものがあれば、と思って」
「それならこんなのどうかしら」
 話しはじめた彼女の声を聞き漏らすまい、としつつ夏樹はメモを取りはじめていた。



「ただいま」
 帰ってきたカイルはやはりずいぶんと疲れた顔をしている。
 そこにふわり、漂ういい香り。
「おかえり」
 どこか仏頂面で出迎える夏樹に、空腹なのかと勘違いしたカイルは
「すぐ食事にするから少しまってて」
 など、言う。
 だからつい、余計に夏樹は不機嫌になってしまう。
「メシ、作っといた」
 本当はもう少し優しい物言いもしたい、甘えたそぶりもしてみたくなくはない。
 けれど夏樹はやはりそうはできない。
 それもこれも子供の頃からアイツが甘やかしたせいだ、と人のせいにしてはまた、不機嫌になる。
 夏樹の言葉が、意外の上にも意外すぎ、きょとんとするカイルを心外そうに見て彼は少し睨んで見せ。
「これくらいだったら、できる」
 そう、拗ねた顔して笑った。
 テーブルに持ってきたのは具沢山のスープ。肉に玉葱、人参にじゃがいもにベーコン、ソーセージ、長ネギ。それにたくさんの豆。
 さいの目に切ったそれらがたっぷりはいった暖かい、スープ。
「アイントプフ……」
「電話で義姉さんに聞いた。これくらいだったらできるだろうって教えてくれた」
「夏樹……」
「たまには、これくらい……」
 照れくさそうに言葉に詰まった彼が口元を被った手には、伴創膏。
「夏樹、指」
「切った」
 視線をそらして言う夏樹の指をカイルがそっと取っては唇に。
 伴創膏の上からのもどかしいようなくちづけ。
 逃れようとするのに腕を引かれて抱きすくめられ。
 言葉もなく、ただ抱きしめてくるカイルのぬくもり。それが心地好くて、なにがどうという訳ではなく、ただ嬉しい。
「たいしたことねぇよ。冷めるぞ」
 それがあまりにも照れくさく、自分から強引に彼の胸を押しのけて腕から逃げた。
 がちゃりがちゃりとわざと食器の音を立てて仕度をする夏樹をカイルは微笑ましげに見ている。
 不機嫌にそうに見えてその実、ただ恥ずかしくてどうしようもないだけなのだ、とカイルは知っている。
「ボーっと突っ立ってないで着替えてこいよッ」
 見惚れていた所に罵声が飛んできても気になりなどはしない。
 職場の人間がみたらなんと思うか、というほどのいそいそとした足取りでカイルはダイニングを後にした。
 戻ってきた時にはすでに食卓は整えられスープは湯気を立てている。
 スープの前で夏樹が先程よりもさらに不機嫌な顔をしてそっぽを向いていた。
「……ありがとう」
 なにを言っても怒鳴り声が飛んできかねないからただそれだけを。
 夏樹はうなずくでもなくまだあらぬ方を見たままわずかに顎を引いただけ。
 それだけで、いい。
 感謝と、それ以上にあふれる思いを共にスプーンにすくったソーセージは見事につながったままで。
「下手で悪かったなッ!」
 怒ったのか恥ずかしいのか、真っ赤になった夏樹をさもいとおしげにカイルはいつまでも眺めていた。




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