金曜日の学校は、閑散としていた。夏樹はぽつりと図書室にいる。つまらなかった。普段から人気の絶えないとは言えない図書室ではあったけれど、今日は殊の外に人がいない。 無理もなかった。一学年全部、いないのだから。今朝早くから、高等部が修学旅行に行っていた。再来週の月曜日まで、帰ってこない。正確には、来週の金曜日に帰ってきはするのだが、登校自体は月曜日、と言うことだ。 夏樹にとって、ようやく「とても親しくなった」と言い得る人が今いない。どうして今なのだろうか、と思う。 「つまんない……」 呟いた声が図書室に響き渡った気がして肩をすくめた。人に聞かれるのは好ましくない。自分がこんな心細い思いをしているなど、誰にも知られたくない。知っていいのは一人だけで、その一人が今いない。 心の底から、つまらなかった。窓からぼんやりと外を眺めれば秋の空。先ほどまで晴れていたと思ったら、もう雲っている。 「カイル」 彼のいるところは今、どんな天気だろうか。同じように曇っているかもしれない。そう思って夏樹はひっそりと笑った。 金曜土曜と森閑とする校内でつまらない思いをして夏樹はすでに飽きてしまっていた。おかげで用もないのに一人、遊びに出てみたりする羽目になった。 彼と知り合うまで、いったいどうやって中学生活を送っていたのだろうかと思う。そう思った自分が不思議で、自宅の門をくぐるとき少し笑えた。 「お帰りなさい」 うつむいて歩いていた夏樹の姿を認めた母親が、なぜか楽しげに声をかけてくる。首をかしげて彼女を見た。 「……ただいま」 「本当に愛想のない子ね。お母さんに、にこってして御覧なさいな」 「母親に愛想振りまいてどうするの」 「……そういうこと言うといいものあげないから」 ぷいとそっぽを向いて頬を膨らませる。どこの世界にこんな母親がいるものか、と思いはするものの現に目の前にいるのだから仕方ない。 「いいものってなに」 それでも夏樹は表情を崩すことなく言ってのけた。母がかすかな溜息をついた気がしたけれど、気にしないことにする。 「もういいわよ、はい、これね」 「なに?」 「手紙じゃないの。お母さんには手紙に見えるけど?」 「うるさいな」 「あ、そういうこと言うのね? ちょっと――」 冗談めかした母親の説教に夏樹は早、背を向けていた。鼓動が高鳴っている。わけもなく照れくさくて離れの自分の部屋へと飛び込む。後ろ手にドアを閉めてようやくほっと息をつく。 「カイル……」 彼しかいなかった。こんな葉書をわざわざ速達で送って寄越すのは。つい口許がほころぶ。目はすでに文面を追っている。 「あいつ……!」 罵り声を小さく上げ、せっかく引きこもったばかりの部屋から夏樹は飛び出す。 「お母さん、ドイツ語の辞書!」 「なぁにー」 「だから、辞書!」 「辞書が、なに?」 笑顔の向こうで母がまた説教を始めようとしていた。敏感に感じ取って夏樹は無理に笑みを作る。 「お母さん、ドイツ語の辞書を貸して欲しいんだけど、お父さんの部屋に入っていいですか」 「はい、どうぞ」 にっこり笑って言う母に、脱力しそうになる夏樹だった。彼が行くまでもなく、母親がすでに用意してくれていた辞書に今度はきちんと礼を言い、夏樹は再び引きこもる。 「カイル……面倒くさいなぁ」 呟きながら顔は笑っていた。夏樹もドイツ語がわからないわけではない。元々彼が留学してくる前、少しだけ勉強をしたし今はその彼に習ってもいる。 だがしかし、これほどみっちりと長い文章を書かれると、さすがに辞書なしでは手に余る。それほどびっしりと葉書を文字が埋め尽くしていた。 ――夏樹さんは、なにをしているところでしょうか。こちらはまだ新幹線の中です。 いま露貴に聞いてみたら京都についてから出しても明日にはつかないだろう、とのこと。だったらいっそ、今日のことを全部書こうかな、と思います。明日の朝、投函すればきっと明後日にはつきますね。 話が前後しますが、お詫びを。どうしてドイツ語で書いているのか不思議に思っているだろうな、と思います。別に嫌がらせや宿題のつもりではありませんよ、あしからず。 クラスメイトに覗き込まれるのが少し、鬱陶しいのです。ドイツ語で書いていれば少なくとも読めませんからね。手間をかけてしまってごめんなさい。 色々文面を考えていたら、京都にそろそろ着いてしまうようです。困ったな。 窓の外にとても高い塔が見えました。先生が東寺の五重塔だ、と言っています。これから見に行ってきます。 帰ってきました。いまは夕食を終えて同室の友達が騒ぎ始めたのでホテルのロビーに移動してこれを書いています。 今日は到着時間が遅かったのか、新幹線から見た東寺と西本願寺に行っただけでホテルです。あわただしかったせいか、ひたすら騒いだ、と言う印象しかなくて少し残念です。もっと書くことがあればいいのに。それでは、おやすみなさい。―― 夏樹の唇がくっと上がっていた。笑っているのか泣き出しそうなのかわからない。ゆっくりと息を吸い、ようやく笑みの形になった。 「信じらんない」 よくぞたかが絵葉書にここまでみっちりと詰め込んだものだ、と思う。たいして用なんかない。どころか、まったく用なんかない。それでも、こうやって絵葉書をくれたことが嬉しい。ちゃんと日曜日でもつくように、速達はそういう意図だったのかとようやくわかる。 「あ――」 大切にしまおうとした夏樹の手が止まる。今まで見ていなかった絵葉書の写真。いったいどんな顔をして買ったのだろう、と笑えてしまう。それは新幹線の絵葉書だった。 もしかして、と思っていた予想が当たった。彼ならばきっとそうするだろう、と今日はずっと学校で考えていた。 勉強に身が入らないこと甚だしいが、そもそも中高一貫で、教師陣も両方を見ているものだから修学旅行中はなんと言っても教師の数が足らなくなる。自習にこそならないものの、似たようなものだから多少上の空でもなんら問題はなかった。 帰宅するなり夏樹は自分の部屋へとまっすぐ向かった。 案の定、葉書が一枚、机の上に置いてある。誰も見ていないせいだろう、夏樹は満面の笑みを浮かべていた。 ――お帰りなさい、夏樹さん。今日は自由行動です。友達と事前提出したコースを周りました。ほとんど露貴に引っ張られて行ったようなものでしたけど。 三十三間堂ですさまじい数の仏像を見ました。言葉がないものですね。そのあと平安神宮。露貴が右近だの左近だの言っていましたが、何のことでしょう。帰ったら教えてくださいね。 パンフレットにあった時代祭を見たかったな、と思いましたよ。その後、南禅寺で三門を見上げつつざっと通り過ぎて昼食は豆腐料理。なんだか頼りないです、口当たりが。嫌いじゃないんですけどね。 みんなが腹ごなしだ、と言って哲学の道を散歩するのもなんだか自棄のような気がしました。やっぱり、物足らなかったのは私だけではなかったようです。 途中で甘味所、と言うのでしょうか。あんみつを食べました。あんこはちょっと苦手です。みんなは照れてるのか笑っちゃうくらい早く食べてました。 哲学の道は桜の木が多いとかで、せっかくだったら春にきたかったなと思います。 最後は銀閣寺。庭園の白い砂は、確かに見事でしたけど私は建物のほうが好きでした。あの佇まいはとても素敵でしたよ。では、おやすみなさい。―― 二通目の絵葉書は、彼が気に入ったと言う銀閣寺。丁寧にしまいつつ夏樹は机に頬杖をつく。いつか行ってみたい、と思った。京都に非常に興味があるとはいえなかったのだけれど、彼の葉書を読んでいると、とても行きたくなってくる。 「ドイツ語のせい?」 そのようなはずもないのに言ってみて、声が妙に耳につくのに驚いた。ひっそりとしていて、ふと寂しくなった。思わず葉書を手で撫でる。夏樹は自分の仕種に気づいていなかった。 ――お帰りなさい、夏樹さん。やっぱり今日も自由行動です。こんなことでいいのかな。あまり社会勉強になっているとも思えませんけど、楽しいのは確かです。 まずは嵐山の散歩。景色を見るのも楽しかったですけど、ただ喋っているだけというのも悪くはなかったですよ。主に露貴とばかり話してましたけどね。 広隆寺の弥勒菩薩には引き込まれそうでした。仏教のたしなみはない私でもそう思うのですから、昔の日本人はとても強くそれを感じたんじゃないかな、と思います。 そんな思いに浸っていたと言うのにすぐ隣で騒ぎに巻き込まれてしまいました。 友達は私を普段は外国人扱いしないんですけど、こういうところに来るとだめなんでしょうか。 太秦の映画村、と言うところではなんだか急に日本に来たてのような気がしてしまって、苦笑しました。もっとも、露貴も苦笑していましたから、みんなのほうがやりすぎ、だったみたいですね。 今日の最後は龍安寺。不思議ですね、何度数えても石がひとつ足らない。 壁の高さで遠近を表現している、とか言っていましたけれど、案内の話を耳で聞くよりもう少しゆっくり見ていたかったな。では、お休みなさい、夏樹さん。―― 自分の気に入ったところの絵葉書をわざわざ買っているのだろうな、と夏樹は思う。 今日の写真は龍安寺だった。彼の目に、いったいどのように見えているのだろうか、と思う。 外国人扱いする、と言って苦笑する様が目に浮かぶようだったけれど、きっと自分が見るものとは違う感覚で捉えている、とも思う。 「カイル……」 そして彼は、違うと言ってもきっと怒りも苦笑もしないはずだ。きっとそうだ、と思うけれど、確かめたくとも彼はまだ帰らない。長い溜息が夏樹の唇から漏れた。 「まだ、三日目――」 葉書の隅、ぎりぎりのスペースに張られた小さな写真のシールに、知らず夏樹は呟いていた。 今日の絵葉書は中々シュールだった、とベッドに横たわりつつ思い出しては夏樹は笑みを浮かべる。四日めの絵葉書は宇治平等院。 「あれはないよな……」 平等院の遠景が、十円玉の柄になっていることくらい、説明されなくとも夏樹だとて知っている。だが、絵葉書の写真にわざわざ囲みを作って十円玉を載せなくともいい、と思ってしまう。 「あれじゃ、集合写真の日に休んだみたい」 囲みの中の十円を思い出して夏樹はまた笑った。 ――お帰りなさい、夏樹さん。今日はどんな一日を過ごしたんでしょう。四日めともなるとちょっと寂しいです。 こちらは今日は集団行動の日でした。正直言ってあまり面白くなかったです。バスでぞろぞろ移動、と言うのがあまり好きではないみたいです。いままで自分でも知りませんでしたけど。 平等院はとても綺麗でしたよ。池に映る建物の姿がとてもいいですね。もっとゆっくり、こういうのが好きな人ときたら楽しかっただろうに、と思うと残念です。 露貴が十円玉をわざわざ財布から出して掲げて見せてくれました。たまにわざとらしいですよね、あいつ。私だって日本に来たばかりでもないですし、デザインが何かくらい知ってるんですけど。 これからバスで移動です。京都は今日が最後。やっぱり修学旅行じゃなくて来たかったです。でも明日からの奈良もちょっと、楽しみです。ではまた明日。―― ――お帰りなさい、夏樹さん。学校では、ちゃんと過ごしていますか。なんだか心配になってきました。よけいなお世話だ、と言われそうな気がしますけれど。 東大寺は話に聞いていたよりずっと大きくてびっくりしました。すごい大きさですね、あの大仏は。昔の人がいったいどんな思いで作ったのかな、と思ってしまいます。大仏もすごかったですけど、私はパンフレットに書いてあったお水取りを見てみたかったな。壮大ですごいですね。発想がファンタジック、と言っては怒られそうですけど。そういえば、篠原の旅行記にお水取りの話がありましたよね。帰ったらもう一度読み返したいです。 春日大社の壮麗さはまた寺院とは違って私は好きです。色使いのせいでしょうか、華やかでときめきます。参道、と言うのでしょうか、よくわかりませんけど、その途中にあったお粥屋さんで昼食にしました。名物は茶粥だとのことでしたけど、粥では腹持ちが悪そうなので何とか御膳と言うものを食べました。名物が色々あったみたいなんですけど、よくわからなかったです。 食後は猿沢池の辺りを散歩しました。緑の水に倒木でしょうか、風情があっていいなと眺めていたら倒木の上にびっくりするくらい亀がたくさん日向ぼっこをしていました。ではお休みなさい、また。―― 春日大社を写した絵葉書を眺めつつ夏樹は思う。ちらり、視線が本棚に動いた。そこには篠原の旅行記が入っている。 「お水取りだけじゃないよ」 お水送りのことも書いてある。ふと思う。いつか行ってみたい、と。二人でお水送りを見て、お水取りも見に行く。彼とならどれだけ長い時間を共にしても窮屈だとは少しも思わないだろう。 机の前から立ち上がり、旅行記を手に取った。ぱらぱらとめくる。つくづく篠原は色々なところに行ったものだな、と思う。 「いつか」 呟いた声にぎょっとした。いつかなんだと言うのだろう。考えていた夏樹の視線が不意に絵葉書へと戻った。 「あぁ……」 いつか彼と旅行記を追いかけるような旅行がしてみたい、と思ったのかもしれない。そこまで考えて夏樹はきゅっと唇を噛む。 彼はいつまで日本にいるのだろう。大学に行くのは聞いた。けれど卒業したらドイツに帰ってしまうのではないだろうか。 それが当然だ、と心の中で声が聞こえる。彼は故郷はここではなくドイツ。ドイツに行くのではなく、帰るのだ。 それでも「行ってしまう」と言いたくなるものがある。我儘を言っていることくらい、わかっている。我儘だとわかるくらい、子供ではない自分が嫌だった。 ――お帰りなさい、夏樹さん。今日は一日のんびりでした。いまはとても幸福な気分です。あなたの一日はどんな日でしたか。いまここで聞くことができればいいのに、と痛切に思います。 国立博物館に来たのは、初めてです。奈良と言う土地柄でしょうか、それとも国立博物館はみなこうなのでしょうか。静謐な空気に熱っぽさが漂っていて、独特ですね。 あの膨大な収蔵品を見てまわるにはとても一日では足りない、と思いました。今日は自由行動だったので、それでも比較的のんびり見ることができたのだ、と思いますけど、やっぱり足りません。もっとゆっくり見たい。できることなら、こういうものが好きな人と一緒に。 露貴も悪くはないのですけどね、あいつは落ち着きが足りなくって。こんなこと言うと機嫌悪くなるから言いませんけど。本当はもっと華やかなところで遊びたかったんだろうな、と思います。それでも付き合ってくれたんだから感謝しないといけませんね。 小さな仏像になんだかとても胸を打たれました。当時の人の祈りがこめられているような気がして。そう思うんですけど、こういうことって中々口には出しづらくって。あなたならわかってくれるんじゃないかな、と思って書きます。ちょっと照れくさいですけど。本当にもっとゆっくり来たかったです。では、また。―― 収蔵品のだろう、写真の絵葉書に夏樹はじっと視線を注いでいた。すでに何度か繰り返された彼の言葉。 「いつか一緒に行きたい」 口に出してみて夏樹は密やかな笑みを浮かべる。言葉は自分の思いでもあったし、間違いなく彼の思いでもあった。 言葉を取り違えている、とは思わなかった。彼にしては回りくどいやり方できっと、誘われているのだろうと思う。 「……たぶん」 思った途端に自信がなくなる。きっとそうだ、と思うけれど、だったらなぜちゃんと言ってくれないのだろうとも思う。 「カイル」 顔を見ていないだけで、なんだかすれ違ってしまいそうなのがとても怖い。 「カイル」 いつか彼がドイツに帰ってしまったら。そのときは今のような繋がりもなくなってしまうのだろう。しばらくは連絡だって絶えないはずだ。それでも、時が経つにつれ疎遠になっていく。 きつく夏樹は唇を噛む。嫌だった。彼を失いたくない。漠然とした思いであっただけに、いまだ幼いとしか言いようのない夏樹の精神の内でそれは明確にはならなかった。しかし、確実にそう思ったことは、確かだった。 ――お帰りなさい、夏樹さん。ご機嫌はいかがですか。私はちょっと疲れてきましたよ。長い旅行と言うのも考え物です。早く帰りたくなってきました。あなたはどうしているのかな。 そんなことを思うのはきっと今日が集団行動だからでしょう。団体で移動するのに疲れしまいました。行った場所はそこそこ楽しかったんですけどね。 奈良民族博物館、と言うところです。昔の暮らしの道具などが展示してあって、興味深かったですよ。隣接、と言うか一部と言うか。民族公園、と言う場所のほうが私は好みでしたけど。 広い公園なんです。そこに古民家が点在していて。点在、と言うのはおかしいですね。この場所のために移築してあるんだそうです。中に入ったりもできて面白いです。 生まれのせいでしょうか。古い建物が好きです。水野の家も古いですよね。時の流れが感じられて好きなんです。思えばあなたの部屋は、あの篠原忍が使っていた部屋なんですね。我慢できなくて、こちらで篠原の本を買ってしまいました。荷物が増えるとわかっているのに。 広い草原で出発時にホテルが用意してくれた弁当の昼食です。幸い天気が良かったので気持ちよく食べられました。食後に篠原の本を眺めていたら露貴に笑われましたよ、こんなところで読むなって。 法隆寺は、すごかったです。人の数が。とてものんびり見るなんて無理でした。早々に諦めて時間を潰したのが残念でなりません。空いている時期があるんでしょうか。あるなら、来たいものです。では。―― やっとの思いで買ったのだろうか。それでも絵葉書は法隆寺だった。思わず苦笑してしまって夏樹は頬杖をつく。 「やっぱり」 誘ってもらえているのだろう、そんな気がしてきた。京都や奈良が好きだと話した記憶はなかったけれど、決して嫌いではなかったし、むしろ好きなほうだと思う、一般的な中学生よりは、多少。 「話したかな」 首をかしげ、目を瞑る。覚えていなかった。話していないなら悟ってくれてことが、話したならば覚えていてくれたことが嬉しい。 「帰る前に」 一度でいい、彼と行きたい。そんな思いが湧きあがっては抑えつけられていく。どうして抑えつけるのかなど、少しもわからないままに。 ――今日はどんな日でしたか、夏樹さん。私はうきうきしていますよ。なんと言っても帰ることができるんですから。クラスメイトの中には残念そうにしているのもいますけど、私は早く帰りたくて仕方ないです。 今日はちょっと後悔するようなことがありました。疲れていたし、帰りたかったし、苛々していたんです。異人館めぐりをしたんですけどね、自由行動の班は、気心の知れた仲間のはずなんですけど、やはりあなたや露貴ほどには私と言う人間を理解してはくれていません。洋館を見るたびに「懐かしいか」などと言われては苛立つばかりです。別にドイツの様式と言うわけではないですし。 それに、こんなこと兄には言えませんけど別にドイツが懐かしいと思うこともあまりないのです。日本が好き、と言うのともちょっと違うんです。好き嫌いではなく、日本にいるのが私にとっては自然、かな。 おかげで露貴には迷惑をかけてしまいました。なんでもないことのように笑ってくれましたけど、あいつのフォローがなかったら仲間と険悪になってしまったかも。ありがたいやつです。 異人館を切り上げたあとは三宮と言う繁華街、でしょうか。ふらふらとして昼食をとりました。なぜかここでお好み焼き。ちょっと場所がずれてる気がしますけど、おいしかったですよ。 後は新幹線に乗るだけです。楽しかった、と言う思いと、やっと帰ることができるという思いと半々です。時間が経てば、楽しかった思い出だけが残るんでしょうね。あなたがこれを読んでいるいま、私はもう寮に戻っているんだなと思うと変な感じです。では明日、学校で。―― みっちりと書かれた絵葉書に夏樹は苦笑する。あれほど嫌がっていた異人館の写真。珍しい攻撃的な口ぶりに、よほど嫌な思いをしたのだろうと察した。 「早く」 月曜日になればいい。きっと彼はなにがあったのかなど、言わないだろう。それでも言いたくなれば話しくらい聞くことができる。黙ってそこにいることくらい、できる。なにより久しぶりになってしまった彼の顔を見ることができる。 顔を合わせても、特別な話はなにもしないだろう。確信をもってそう言える。それでも長いあいだ離れていたのが、とても寂しかった。 月曜日。久しぶりに戻ってきた高二のおかげで、校内はどことなくざわめいている。図書室までもが騒がしくてならない。 「夏樹さん」 振り返ればそこに彼がいた。少し疲れた顔をしている。二日休んだくらいでは、取れない疲労だったのだろう。 「うん」 案の定、なにも言葉がなかった。それでもコンラートが穏やかな顔をしたからそれでいいのだと夏樹は思う。 「改めて。ただいま帰りました」 「うん。おかえり」 「――はい」 たったそれだけ。充分だな、と思う。夏樹の顔に現れたものを読み取ったコンラートもまた、充足した表情を浮かべた。 「お土産です」 自分の言葉に照れたのだろうか、コンラートが視線を外した。だから夏樹は言い損なってしまう。土産なら、もうもらっている。絵葉書をあんなにくれた、とはとても。 黙って受け取ったものに夏樹は知らず目を見開いた。それは絵葉書の束。ちらりと見上げれば、どこかを見たままの彼がいる。 「使い残しですけどね」 そっぽをむいたままの彼に夏樹は満面の笑みを向ける。誰一人、それを見ることはなかった。黙って二人して図書室の窓から外を眺めていただけ。 ずいぶんと時間が経ったあと、夏樹は大事そうに絵葉書の束を胸の中へと抱きかかえた。 |