紅葉坂には妙な伝統がある。それもたくさん。これが長い伝統を誇る学校、と言うことなのかもしれないが、やはりコンラートには不思議なことのにように思えた。
「できすぎだよな」
 辺りを見回していたコンラートに、にやりと笑って露貴が言う。
 二人ともスーツ姿だった。ついこの前まで高校の制服を着ていたのに、と思えばどこか面映い。それと同時に少し大人になったような誇らしさ。
「なにが」
「桜」
 言って校庭の桜を指差す。満開からわずかに時間を置いた桜は、はらはらと風に散っていた。
「入学式に桜なんてはまりすぎだろ」
「そう言うもん?」
「だな」
 日本に来てから三年を経ている。入学時もその間に自分の分もいれて三度見ているはずなのだが、どうにもコンラートの記憶は曖昧だった。
「なんでなんだろうなぁ」
 舞い散る桜の花びらを掌に受けて露貴が呟く。彼の掌から花弁をつまみ上げればしっとりと冷たい。
「なにがだよ」
 ふっと息を吹きかけ飛ばせば、もう他の花びらに紛れてわからなくなった。いったい一本の桜の木に何枚の花びらがあるのだろう。このまま舞い続ければあたり一面が白くなってしまいそうだ。そう思ったところで思い出す。確かに毎年校庭は白く染まっていた、と。
「だって変だろ」
「だからなにが」
「なんで卒業生が入学式にいるんだよ?」
「あぁ、そういうことか」
 したり顔でうなずくコンラートに軽く露貴が殴りかかる真似をした。
「コンラート君はおわかりかな?」
「やなヤツ。わかるわけないだろ」
「じゃあ、なにがそういうこと、なんだよ」
「お前が何を疑問に思ってるのかなって思っただけ」
「んじゃ、お前は変だと思わないのか?」
「物凄く変だと思ってる」
 真顔で言ったコンラートに露貴が笑った。
「まぁ、ちょっとは伝統とやらに感謝してるけどね」
 言い添えたコンラートの言葉を露貴は聞かないふりをした。コンラートも何も言わなかったとばかり空でも眺めている。
「先生方は喜んでるみたいだけどさ」
 露貴が顔を向けた先には教師の一群。二人そろって軽く会釈をすれば向こうは手を振り返してきた。
「なんで?」
「卒業生と在校生の間に親密な一体感が生まれる、とか思ってるらしいぜ」
「それのどこがいいのかなぁ」
 首を傾げるコンラートに露貴が笑った。
 紅葉坂学園は中高一貫教育を謳う男子校だ。念の入ったことに小学部すら男子のみ。さすがに大学は共学なものの、高校からそのまま大学に進む生徒が多い。つまりそれだけ緊密な派閥が出来上がる、と言うことだ。
 それは社会に出てからも相当に有利、らしい。そしてそのような教え子がいるということは私立の教師にとっても有効なのだと言う。もっともコンラートには日本の社会のことはいまだよくわからないままではあったが。
「実はけっこう教師陣にとってまずいことでもあるんだけどな」
 いたずらの共犯を見るような目を露貴はしていた。それからわざとらしくコンラートを呼び囁くよう話す。いまここに二人以外の姿は見えないというのに。
「どこが?」
 そんな露貴の稚気につい乗せられてしまった。思わずコンラートは自分まで小声になってしまった事に気づいてかすかに苦笑する。
「卒業生はそのまま後援会に組み込まれるだろ、何年かは」
「十年」
「よく知ってんな、お前」
 呆れ声で大仰に仰け反る露貴を半ば冗談に睨んでコンラートは彼の腕を叩いた。
「卒業式のときに言ってただろ」
「そうだっけ? ま、いいや。お前はあんまり興味ないだろうけどさ、後援会って結構力があるんだよな」
「なんの?」
「言ってみれば政治力? 教師一人やめさせるなんて造作もないぜ」
 う、ともあ、ともつかない声がコンラートの唇から漏れた。
「前にあったんだよ」
「いつ」
「まだお前が日本に来る前。俺が中学ん時」
「それじゃ、知らないか……」
「でも噂くらいは聞いたことあったはずだぜ。ろくな授業じゃなくってな、教科書読み上げるだけとか自習とか。そんなんばっかで生徒がキレた」
「真面目だよなぁ」
 茶化すよう言えば、お前にだけは言われたくない、など露貴が小声でぼやく。
「で、誰が言ったのか知らないけど後援会が動いた。もっともそんな教師じゃなかったら後援会も手出ししなかっただろうけど」
 一応は公正なんだ、付け足して露貴は遠くを見るような目をした。彼の様子を見れば実際の所、もっと酷い教師だったのだろうと想像はできる。けれど露貴が言いたくないことならばコンラートはそれ以上聞きたくはなかった。彼は自分の心の内側の柔らかい所を踏みにじることは決してしなかったのだから。今まで一度として。そしてこれからもたぶん。
「露貴」
「なんだよ」
「西本。覚えてる?」
「覚えてるよ。でもお前が言う前に言ってやる。夏樹が後援会にすがることはない」
「なんで」
「見ず知らずの他人を頼るくらいなら自分の父親を頼ったほうがまだ屈辱的でマシだと思うだろうよ、あいつは」
「すごい理論だな」
「同じ屈辱ならあとで晴らすのに都合がいいほうを選ぶべきだろ」
「……それもすごい理論だな」
「なにをいまさら」
 そう言って露貴はコンラート呆れ声を笑い飛ばした。本当は仲のいい親子だった。少なくとも夏樹の父親は彼を溺愛している。もう少し頼って欲しいとも思っているのをコンラートは知っていた。何しろ彼の父自身に打ち明けられたのだから。
 だから夏樹が父親に対して事を構えるつもりがないことは明白だった。屈辱、それは彼が自分の幼さに対して抱いたものだろう、コンラートはそう思う。
 何もできない無力な自分を実感するほど悔しいものはない。おそらく夏樹はあの時それを感じたのだと思う。そしてその無力感をコンラートは知らないではなかった。
「なぁ、露貴」
 せっかくの穏やかな春の気候にこんな話しをするのがもったいなくてコンラートは話を変えようと彼を呼ぶ。露貴はわかっていたような顔をし、次いでにやりと笑う。
「なにかな、コンラート君」
「嫌味なヤツ」
「早く言えって」
「別にたいしたことじゃないんだけど。なんでお前、経済学部、選ばなかったんだ」
 大学で学んだことが実践の役に立つなど毛ほども思っていない。それでも肩書きが何かの役に立つことくらいは理解している。
 いずれおそらく露貴は家業を継ぐのだろう。本人はそのつもりらしいし、周りも期待している。決め付けられているのではないかと少しばかり心配したがどうやら杞憂のようで、露貴自身が楽しみにしていると気づいたのはいつだったか。
「大学なんて遊びに行く所だ!」
「お前なぁ」
「青春時代の最後の四年だぞ。数字と格闘してなにが楽しい」
 きっぱり言い切られてしまってコンラートは声もない。何だかそういうものか、と納得しそうになってしまう。
「それでも……」
 言いかけたコンラートの言葉が止まった。目は見開かれて遠くを見ている。
 決してぼんやりとした目ではなかった。コンラートの視線の先には人影。徐々に近づいてくるそれは。
「夏樹さん……」
 思わず息を飲みたくなるのをコンラートは必死でこらえた。入学式後のガイダンスが終わったのだろう、教室棟から歩いてくる彼の足取りは落ち着いていて、それでいて少しばかり戸惑いを含んでいる。
 それが何に端を発するものかわずかに惑った。そして思いつく。照れているのだ、と。
「おぉ、けっこう似合うもんだ」
 従弟に手を振る露貴の声。
「本当に」
 上の空でコンラートはうなずいていた。見慣れた中等部の制服ではない。夏樹がまとうのは高等部の新しい制服。
 形こそ大差はない。中等部の、どこか少年めいた色合いをした濃紺のブレザーではなく黒に変わっただけ。ズボンはグレイからダークグレイへ。臙脂のネクタイは濃紺になった。
 たったそれだけの色の変化。それなのにまるで一息に大人になってしまったように見える。つい最近まで自分がその制服を着ていたと言うのに。
 桜を散らす風が夏樹の制服をもあおる。一陣の風に顔を顰めて乱れた髪を無造作にかきあげるその仕種。
 昨日と今日が連続した時間ではなくなってしまったようだった。一気に時間を飛び越えて夏樹が大人になってしまったような。
 彼が側に来るまでに呼吸を整えたい。そう思っても出来そうにはないかもしれない、コンラートは呆然と夏樹を見ていた。
「惚れ直したか」
 小声で、露貴がコンラートを見もせずに問う。からかうような口調だった。
「ぞくぞくするね」
 だからコンラートもそれに応えた。あながち嘘でもない。彼らに向かって歩いてくる少年は、もう少年とは言い難い。そこには確かに強靭で、自分の道を見定めて進んでいくことができる男になり得る気配がすでにしていた。
 わずかに胸が痛む。いつまで彼の側にいられるのだろうか、と。露貴を笑ったもののコンラートにとっても大学四年間は猶予だった。あと四年。それだけでもいい。夏樹のそばにいたい。
「カイル」
 ゆっくりと近づいてくる彼の呼び声が聞こえた。穏やかな顔が作り物に見えないようにと細心の注意を払ってコンラートは微笑み手を振り返す。
 そして息を飲んだ。夏樹の襟元が光を放つ。春の日差しに、彼の襟には確かに輝きが宿っていた。


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