絡んできた相手にああ言ってしまった手前、コンラートは用もないのに駅前まで夏樹に同行する。 他愛ない話を時折交わすだけでそれほど会話はなかった。夏樹の機嫌がいい証左でも、ある。自分のことを理解してくれている、と彼が実感しているとき、極端に口数が少なくなる。 だから、コンラートはそれが嬉しい。 機嫌がいいついでに、いっそ打ち明けてしまおうか、わずかばかり逡巡して心を決めた。 「夏樹さん」 コンラートの声に顔を上げ、不思議そうな表情を浮かべた。 「もうすぐ、文化祭ですよね」 実にあわただしいことに、紅葉坂の文化祭は九月半ばにある。準備は夏休みを挟んで行うことになっているので、確かに怠りなく出来はするけれど、新学期始まってすぐ、と言うのはせわしくていけない。 「楽しみ?」 「なぜです?」 彼の口調に少しばかり皮肉の匂いを嗅ぎ取ってコンラートは訊ね返す。 「……女の子、来るじゃん」 「あぁ……」 「楽しみでしょ」 「お祭り騒ぎは楽しいですけどね。別にそれは」 むさくるしい男子校に、女性の姿が散見する唯一の機会、文化祭。生徒の中にはそれを楽しみにしているものも多い。が、夏樹には言うことができない理由で、コンラートはまったくなんの期待もしていなかった。 「ふうん」 あっさり言ったものの、どうやら満足したらしい。目許の険が和らいでいる。 「嫌なことを訊くようですけど、今日はずいぶん絡まれたみたいですね」 「まったく」 一転、吐き出すように彼は言う。そしてコンラートを見上げ、 「で?」 そう問うた。 どうやら見抜かれているらしい。 「あなたが嫌でなかったら、ピンブローチ、用意しますけど」 夏樹は絶句した。コンラートと二人、足を止めてまるで睨みあうように立ち止まってしまう。 それも当然かもしれない。 これを教えてくれた露貴もいつごろからかは知らない、と言っていた。文化祭の日、想う相手にピンブローチを渡す、と言う伝統があるらしい。さらに冬服に替わったとき、贈られた相手がそれを制服に飾っていたなら、想いは受け入れられた、と言うことになるようだ。まったくどうかしているとしか思えない伝統だった。紅葉坂は創設以来、一度として共学であったことはないのだから。 しかしこれ幸いと、コンラートはそれをカモフラージュにしたらどうか、と提案している。実は本心だ、とは夏樹でも見通すことはできないだろう。 「……カイルが」 無言でコンラートを見つめていた夏樹が歩き出す。それからずいぶん経ってぽつり、彼は言う。 拒絶されたのだ、と思いかけていたコンラートは彼に見えないよう心しながら破顔する。 「あなたが嫌でなければ」 再度言えば 「俺は嫌じゃない。全然。でも、また……」 そうためらった。けれど迷っている、と言うことは提案を受け入れてもいい、と言うこと。 「西本ほど、直接行動に出てくる人間がそういるとは思えませんし、それにあなたも言ったようにある種のゲームなんでしょう。ならばゲームセットに見えてしまえば、それほどややこしい問題は起きないと、思いますよ」 「そう、かな」 「まぁ、駄目で元々。物は試し、と言うやつです」 茶化し半分の口調で言えば、夏樹が笑う。それに胸が痛んだ。 心から、受け取って欲しい、と思っていること。夏樹は夏樹で、もしもピンを受け取ることでコンラートに危害が加えられたら、と恐れている。間違いなく、それは彼の本心だろう。 でも、擦れ違っている。悔しいとか、悲しいとかではなく、身を焼くのは嫉妬、としか言いようがなかった。誰に対してのものなのか、なんに対してのものなのかさえ、わからないと言うのに。 「……楽しみにしてる」 自分の内側に入り込んでしまいかけたコンラートを夏樹の言葉が引き戻した。 少し、はにかんだような声。見れば、視線を落としてうつむいていた。 「えぇ、そうしてください」 わざとらしいほどの明るい声で言えば、軽く睨まれた。 心の中、呟く。 ――こんな顔をしてくれる。受け取ると言ってくれる。それで満足じゃないか。 けれどそれは自分をなだめるための言い訳に過ぎないことをコンラート自身、わかっていたのだった。 なんだかそのまますぐに寮に戻る気になれなくて、ぶらついて歩く。用など端からなく、あてもない。かと言って散歩、でもない。 ただの時間つぶしだった。 なにも考えたくない。誰にも会いたくない。人混みの中、一人でいるというのは今のコンラートにとって、これ以上なく気が楽なものだった。 恋した相手が信頼してくれている。自分を理解していると言ってくれる。それはそれで嬉しいことなのだけれど、自分と彼とでは確実に見ているものが違うのだ。 そんなことは初めからわかっていたことだけれど、やはり突きつけられれば目をそらしたくなる。 「……帰るか」 時計を見れば時間はもうない。いまから急いで戻っても寮の門限ぎりぎりだ。あえて塀を乗り越えて寮に戻るほどの手間をかけたい心境でもなかったコンラートは仕方なしに足を速めた。 ちょうどほとんどの寮生が夕食を取っているのだろう、寮の玄関はあまり人気がなかった。人目にさらされないで済むのにほっとし、足早に自室に戻っては着替えて食堂に降りる。ざっと見回すと、幸い――と言うのも変なものだが――露貴は食堂の奥で友人と喋りながら食事中だった。 なんとなくまだ一人でいたくて、食事の乗ったトレイを持って席について一人で食べた。 そんなコンラートになにかを感じるのか、普段は騒がしい仲間たちも今夜は声をかけてこようとしない。 先に食堂に来ていた露貴よりも早く食事を終え、誰とも口を聞かないまま、コンラートは自室に戻った。 ――まだ、もう少し。 そう思って入浴の支度をしようと仕掛けたところ、コンラートにとっては運悪く露貴が戻ってきてしまった。 「すまん」 開口一番、露貴が言ったのはそれで。 「え?」 いささか気の滅入っていたコンラートもこれには驚いて言葉を返した。 「なにが。お前に謝られるようなことってあったっけ」 「……西本のこと。気づかなかった」 「あぁ、あれか……」 「あいつがまさかそこまで強硬手段に出るとは思ってなかった」 「それは、ね」 「せめて、知ってりゃ……止めなかったと思うけど、でも。お前に知らせることはした」 「わかってるよ、露貴」 「だから」 「お前が気にすることじゃないって」 いまの鬱々とした気分のコンラートより、なお露貴は落ち込んでいるのだろう。友人がショックを受けているのではないか、と気遣って。 そういうやつだから。内心でコンラートは苦笑いをする。 「でもさ」 「だから、露貴」 「違うんだよ。お前が……つらくて仕方ないだろうと思うと、たまんない」 ふいにうつむいて、唇を噛みしめた。震えるほどにこぶしを握り込みその場に立ち尽くす露貴を、見ていることのほうが、ずっと胸が痛い。 「馬鹿だな、露貴。なんで俺がつらいんだよ」 せいぜい明るく言えば、弱々しい笑みが返ってきた。 「つらいくせに」 どちらがつらいのか、わからない顔をして露貴は言う。 「……それは」 「つらいだろ」 「そうでも」 「つらいって言えよ!」 血を吐くような、と言うのはこういうときの言葉なのだろうか。凝り固まってしまったコンラートの言葉を解きほぐそうとでも言うのか。 こぶしを振り上げ、唇を噛み破らんばかりにして露貴はコンラートの胸を叩く。 「つらいって……言ってくれよ」 泣きそうだった。 露貴が。コンラートが。 「けっこう、つらかったよ」 殴られるままになっていたコンラートが、ようやく彼の腕を捕らえて一言だけ、言った。 露貴の腕の力が突然抜け、崩れるように自分のベッドに座っては頭を抱え込む。 露貴は、わかっているのだ。 西本追放に追い込んだ夏樹もやりたくないことを――たぶんもっとも嫌う手段でやらざるを得ないほどやりたくないことを――やったのだと、わかっている。 そしてそれが夏樹自身のためではなく、コンラートのためだったことも、わかっている。 それがどれほど、コンラートにとって狂おしいことなのか、露貴は知っている。 だから、自分のせいだと、責める。 違うんだ、大丈夫だ、そう言いたくてもコンラートは上手い言葉を持たない。本心が伝わるとは思えない。 心から、痛い。でも、それでも、大丈夫。そう言いたいのに。 「でもね、露貴」 だから、少しだけ話を変えた。筋は、同じだったけれど。 「文化祭、近いだろ」 「あぁ」 「あの人に、弾除けの志願したよ」 「弾除け?」 「そう、弾除け」 訝しげな顔をした露貴に、コンラートは順を追って午後の出来事を言ってしまうことにする。さすがにすれ違ってるだの、見ているものが違うだのの話はしなかったけれど、とりあえず起こった出来事を事実のままに話した。 「あの人も最初は嫌がってたみたいだけどね」 「んーまぁ。お前がまたなんかされると思ったかもね」 「そうみたい」 思わず苦笑が浮かぶ。 「それでさ、あの人自身が言うように、ゲームみたいなもんだから」 「一見誰かのもんに見えちまえばゲームセットってわけか」 「一応、ね」 少しばかり困った顔で笑ってしまった。露貴には、自分の考えてることなど、もうわかってしまっただろう。 「俺は俺でかこつけて渡しちゃえるし」 だから、さっさと白状した。茶化して言ってしまえば、気も楽だ。 「だからね、露貴。結果的に、なんの問題もないんだよ」 穏やかに見えるコンラートの顔を見て、露貴はなにを思っただろうか。なにかを思ったとしても、露貴はその説明を受け入れた。これ以上、語りたくないと言うならば、それがコンラートの意思なのだから。 「そうか」 「うん」 「なら、いいか」 「いいんだよ」 「わかったよ、コンラート」 友人の意思を尊重しよう。なんの問題もない、とはとても思えなかったけれど、露貴はそれでいい事にする。 またなにか起こったときにサポートすればいい。そうも思うから。 「実はね」 「まだなんかあったのか」 「俺をなんだと思ってるんだか」 笑ってコンラートは背中を向け、荷物入れから小箱を取り出す。 「なにそれ」 「笑えよ」 「笑うから言え」 照れくさげにコンラートが見せたのは、小さなブローチ。正に文化祭で贈られるほどの大きさの。 「帰省したとき、実は用意したんだ」 「……お前って」 「ンだよ」 「ホント、用意周到なやつ!」 「うるさいよ、露貴」 「褒めてる褒めてる。見せてよ、それ」 実際まったく褒めているようには聞こえなかったものの、これは露貴なりのある種の親愛表現なのだろう、とコンラートは笑い、ピンブローチを渡す。 「猫?」 「うん。どうよ」 「あー。こういうのあいつ好きそう」 「そりゃ良かった」 軽く言ったものの、真実ほっとしている。 それは夏樹が好きそうだ、と言うからではなく、そのデザインにこめられた意味に露貴が気づかなかったから。 露貴が気づかないからと言って彼もとは限らないけれど、よほどジュエリーデザインに興味でもない限り、現代の日本の少年が知るようなことでもない。 まずそれを露貴で確かめたかった。実験、と言ってもいい。 「可愛いじゃん」 露貴も、案外こういうものが好きなのかも知れない。 子猫がボールを抱えてじゃれている意匠だった。そのボールに、細工がある。六つの色石がはまっていた。左下からぐるりと、ルビー・エメラルド・ガーネット・アメシスト・もうひとつルビー。そして中央にダイヤモンド。 リガード様式と言われるそれは、愛に対して忠誠を誓う、と言って十九世紀ごろに流行したものだった。一般的にはスペリングの順に左から並べるけれど、こうして変則的なものもある。その分、知っていなければ、わかりにくい。 だからあえてコンラートはわかり難いほうにした。これならば仮に夏樹に見破られても驚いたふりをして「知らなかった」と言い逃れることができる。姑息だったが、それ以外に方法が思いつかない。 「けっこういいでしょ」 「うん、可愛い」 従兄が言うのだから、夏樹もきっと気に入ってくれるだろう。 「でもこれ、高いんじゃねーの」 あいつ、けっこうそういうの気にするから。露貴が言い継ぎ、コンラートの手の中にブローチを落とした。 「そうでもないよ。俺が買えたくらいだから」 実際、宝石、と言うにはあまりにもグレードの低い石だから、価値としてはほとんどないに等しい。換金できるとしたら地金代くらいなものだろう。 「ふうん、そういうもんか」 そう言って不思議そうな顔をした露貴の口調が、あまりにも夏樹に似ていて、コンラートは思わず笑い出す。 笑わなければ、立ってさえいられなかった。 |