秘書室の連中が騒がしいのは今にはじまったことではない、と言いつつ今日の騒ぎはいつにもまして凄まじい、とカイルは溜息をこらえた。
「これは、何事?」
 秘書室の中に、なぜ笹飾りがある。夏樹の渋面を思ってはつい厳しい声音になるのを隠せない。
「あ、室長。ほら、今日は七夕ですから」
 そんなことはわかっている。と言いたくても言えないカイルはあからさまに溜息をつく。社員を叱るのは常に夏樹の役割だ。自分はそんな彼のフォローをするのが役目。そのはずなのに今日に限っては自分のほうが怒ってしまいそうだった。
「室長も、是非」
「なに?」
 呼吸を読まれでもしたよう、短冊を差し出された。思わず受け取ってしまったカイルは苦笑する。
「さっきカイザーにも書いていただいたんですよ」
 朗らかに社員は言うけれど、そのときその場に居合わせなくて心からよかった、とカイルは思う。
「どれを?」
 いったいあの人はなにを書いたのか、と興味が湧く。大方「社員か真面目に仕事をしますように」とでも書いたのだろう。思えば口許が緩む。そのような皮肉が通用する秘書室ではない、と知ってはいたが。
「これです」
 なぜか楽しそうに指差された短冊には、実に意外なことが書いてあった。
「カイザー、意外って言ったらなんですけど。ちょっと不思議ですよね、ドイツ語が上達しますようにって」
 そう口を挟んだのは新庄だった。カイルは呆れて物も言えない。自分が秘書室を留守にしていたあいだ、部下を統括するのは誰だ、と言いたくなってくる。
「新庄」
「あ、はい」
「お前は自分の役割がわかってるのか」
「あ。えー、はい。わかってる、つもりです」
「つもり、じゃ困る」
 ゆっくりと息を吸えば、観念したよう新庄がかしこまった。
「これって、なんでなんです、室長?」
 そこにタイミングよく入り込む社員の声にもカイルの気勢はそらされる。新庄がこっそりと相手に向かって微笑んだ。
 これだけの連携を仕事で生かしてくれたならば、どれほど心が安らぐことだろうか。常々カイルと夏樹が共々願っていることだった。いっそ短冊に書いてしまいたいほどに。
「これ、ね……」
 言っても仕方ない、と言うよりは、イベントごとを済ませてしまわなければ仕事にならない、と悟ったカイルは諦めた。
「やっぱあれですかね、製薬業ではドイツが先進国じゃないですか。そのせいですか、室長?」
 一応、仕事のことも考えているのだ、と言う姿勢を見せるためか新庄が言う。カイルは苦笑を隠せない。
「さぁ、どうかな。確かにドイツの製薬業は優れているけれど。制約も世界一厳しいしね」
「ですよね。うるさいって言ったらなんですけど」
 言ってからカイルがドイツ人であることを思い出したのだろう、新庄はばつの悪い顔をした。その程度のことではなんとも思わないカイルは曖昧に微笑う。こんなことのできる自分はすっかり日本人だな、とこのようなときには思う。
「だからドイツ語ってあたりが、なんと言うか仕事熱心ですよね、カイザーって」
「そんなにいつも仕事のことを考えているわけでもないと思うけれどね」
「そうなんですか? でも、これってやっぱ仕事ですよねぇ。俺も習おうかなぁ」
 首をひねる新庄に、カイルは笑い出したい気持ちを抑えきれない。本当のことを言ってしまえば話は早いが、かといって言えるものでもない。
「ただ、巧くなりたいだけだと思うよ、カイザーは」
「巧くってことは、わかるんですか、ドイツ語!」
「当然だと思わないか」
「そう言われても……。うちもドイツの製薬会社と取引はありますけど、あれって英語で話してますよね?」
「他の重役がみんなドイツ語が話せるわけじゃないからね」
「現場の人間だってぺらぺらってわけじゃないです」
 会社として語学に堪能な者はいつでも欲しい。そのためこの会社にも語学学習に関する優遇制度のようなものがあった。ある程度の補助金を社から支給している。それでもやはり、中々欲しい数だけは集まらないのが現状だ。
「英語だってそうですよね。この前の取引のときは通訳さん、頼みましたもんね」
「できれば外には頼みたくないんだけどね」
「色々ありますからねぇ」
 したり顔で新庄が言ったけれど、カイルの思惑とはたぶん違うのだろう。カイルとしては他者を挟まないで話のやり取りをしたほうが確実性が高まる、と考えているだけのこと。
「カイザー、だからドイツ語ですか?」
 結局話はそこに戻るのか、とカイルはちらりと社長室の扉に視線を向けた。この騒ぎが聞こえているはずの夏樹はといえば、断固として出てくる気はないらしい。
「カイザーは、ドイツ語が堪能だよ」
 諦めて言ってしまうことにする。思えばそれを新庄が知らないと言うのが不思議だった。特段、彼がドイツ語を理解しないふりをしているわけでもないというのに。
「え、そうなんですか!」
 やはり新庄はそれは驚いた顔をした。新庄のみならずその場に居合わせた社員すべてが。これはあとで夏樹に怒られるかもしれない、とカイルは腹をくくる。
「日常会話程度だったらなんの問題もない。ドイツ語で文学の解説をしろ、とかいうんじゃなかったら平気だろうね」
「……そういうのは日常会話とは言いません」
「だろうね」
 それほど堪能だ、と言いたいだけのことだった。それを汲み取ったのかどうか、新庄が上目遣いにカイルを見上げる。
「それって……」
 なにが聞きたいのかわかっているカイルは涼しい顔だった。が、新庄は問いを最後まで発することはなかった。
「諸君。いつまで遊んでいるつもりかね。私の時計ではいまは就業時間中だが」
 たっぷりと皮肉のまぶしつけられた夏樹の声に、一瞬秘書室が静まり返る。正に一瞬だけのことだった。
「カイザー、質問です! ドイツ語、どこで習われたんですか?」
 果敢といえば聞こえはいいが、仕事をする気があるのかと思いたくなってくる社員の声に夏樹は視線を向け、そしてカイルを見る。
「お答えになったほうが、早く秩序が回復するかと思います」
「そう思いたいものだ」
 いかにも疲れきったと言いたげに夏樹は肩を落とす。睨みつけられてもまるでこたえた様子のない社員をもう一度睨み、カイルは顎で指し示した。
「そこにドイツ語が母語の人間がいる。特にどこかで習ったわけじゃない」
「あ。じゃあ、室長が教えたんですか。いいなぁ!」
 なにがどういいのか新庄に尋ねることはカイルも夏樹もしなかった。
「代わりに日本語を教えていただいたからね。中々上達しない悪い生徒だったけれど」
「生粋の日本人よりよっぽど綺麗な日本語を使ってるくせになにを言う」
「あなたのドイツ語も綺麗ですよ。この前、義姉と電話で話していたでしょう? あのときしみじみとそう思いました」
「そんなことがあったかな?」
 ちくりと言って夏樹はとぼけた。うっかり社内だということを忘れて言ってしまったカイルは視線をそれとなく天井に飛ばす。
「えー、室長のお姉さんですか。カイザーなにを話してたんです?」
 興味津々と言った顔で新庄が問う。夏樹は顔色ひとつ変えず、視線すら向けないままにカイルを睨みつける、と言うカイルにだけしかわからないやり方で苦情を言った。
「姉じゃないよ。兄の妻。あのときは――」
 そこまで言って、はたとカイルは困ってしまった。義姉とは家族同様の話をしていたとは、ましていずれ二人揃って長期休暇を取ることができたら帰省する約束をしていたなど、言えるわけがない。ほんのわずかカイルが言葉に詰まったのを見透かしたよう、夏樹が言葉を繋いだ。
「普段なにかとよくしていただいてるから、そのお礼だ」
「わざわざ社員の家族に、ですか?」
 自分はそんなことしてもらったことなどない、と言い出しそうな社員に夏樹は少しだけ口許を緩めて見せた。
「外国で就職したまま帰ってこない兄弟がいたら、不安だろう?」
 普段あまり笑みを見せることのない人なだけに、実に効果的だった。なんとなく社員はそれで納得してしまう。カイルとしては笑顔の使い方が間違っている、と思うのだが、自分の失言が元なだけにいまは何も言えなかった。
「あぁ、そうですよね。カイザー、お優しいんですね」
 すっかり騙された社員が言うにいたって、カイルは天を仰ぐべきか夏樹に感謝するべきか迷う。
「あ、と。室長、これ書いちゃってください。そしたら仕事に戻りましょう!」
 ようやく肩書きらしいことを思い出した新庄に差し出されたペンを取る。いまだ持ったままの短冊につい視線を落としたまま考え込んでしまった。
「じゃあ……、カイザーに倣って日本語上達でも願おうかな」
「それ以上巧くなってどうする」
「そうでしょうか? では、改めて」
 夏樹の言葉にカイルは悪戯めいた笑みを零してペンを走らせた。
「室長、ずるいです! 日本語で書いてくださいよ」
「ドイツ語、習おうかって言ってたじゃないか、新庄。せっかくだからやってみたらどうだ?」
 ドイツ語で書かれた短冊を覗き込んだ社員たちがみなして不満顔をしていた。そんな中、ちらりと目を走らせた夏樹だけが珍しく声を上げて笑う。
「あ、ずるいです! カイザー、読んでくださいよ!」
「上司に幻滅されては困るからな、やめておこう」
 ひらりと手を振って夏樹は背を返し社長室の扉をくぐる。扉が閉まる寸前、振り返った。
「カイル」
「はい。早急に秩序は回復させます」
 それに満足そうにうなずいて彼は室内に姿を消した。誰彼かまわずドイツ語の辞書はどこだだの、いっそネットで機械翻訳にかけてしまえだの言っている。少しだけ秩序回復に自信がなくなるカイルだった。
 ちなみにカイルの短冊に書かれた願い。それは「長期休暇をください」だった。




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