原因を作ったのは確かにコンラートだった。 本人は態度に表さないよう心かげているつもりらしいが、夏樹は夏が苦手だ。いったい母親の血はどこにいってしまったのだろうと思わせるほど容貌の似通った彼の父も、その双子の弟もやはり夏は苦手にしている。夏樹の叔父に言わせると「伯父貴ほどではない」と言うことだったが、どうやら夏樹は叔父の伯父、かの文豪、篠原忍により似たらしい。 高校生になった今でも肌は少年めいて透き通るようだったが、夏もたけなわとなってくるとそれが本当に透けて向こうが見えそうになってしまう。 だから原因はやはり、コンラートだった。 「避暑にでもいったらどうです。小父様にお願いしてみたら?」 確かに水野家は避暑地に別荘を持っている。教師をしている夏樹の叔父の関係で、時折生徒の合宿用に貸すことはあるが、今はその予定は入っていないはずだ。 大学に進学してもそこは同じ紅葉坂の名を戴く学校のこと。コンラートもある程度は母校の後輩の予定を掴んでいる。 「うん、そのうち」 夏樹はそのときは短くそう言っただけだったから、乗り気ではないのだろうと、コンラートは思ったのだ。 甚だしい勘違いだった。いつもならば夏樹が口を開かなくともその意図を把握して見せるコンラートにしてこの失態。いささか暑さが勘を狂わせたらしい、とコンラートは露貴を前に苦笑していた。 「で、どうするよ?」 「どうするもこうするもないだろ。あの人が行くって言ってるんなら行くよ」 「と言うかむしろお前に来い? そっちのほうが正しくないか?」 わずかばかり茶化して言う露貴をコンラートもまた悪戯に睨みつける。 「露貴」 「うん?」 「お前の大事に従弟殿を傷物にされたくなかったら、その口に気をつけたほうがよくないか?」 「だってお前、例えば俺がけしかけても手はださんだろうが、いまとなっちゃ」 さらりと言われて凄んで見せたコンラートが言葉に詰まる。いまだかつてこの友に口で勝てた例のないコンラートは早々に降参して両手を上げた。 「で、いつ出発なの」 「その前に。お前、わかってる?」 「なにが?」 きょとんとするコンラートに、露貴は内心で少しばかり従弟に同情を寄せる。純でうぶなのはどうにも従弟だけではない気がして仕方ない。 「あいつの夏休みはいつから?」 「そりゃ七月の半ばから。高校生だし」 「では質問です、コンラート君。我々大学生の夏休みはいつからでしょうか」 「はじまったばっかだな。八月からだから」 「ではあの夏ばてで見る影もない我が従弟殿が、いままで耐えに耐えてきたのはどーゆーわけでしょうねー?」 にやり、と露貴が笑う。この人の悪そうな顔はどこかで見覚えが、と思ってコンラートは頭痛を覚える。別荘の利用を快諾してくれたときの夏樹の父の表情にそれはよく似ていた。 「それは……まぁ、小父様、意外と過保護だし。高校生の息子が一人で避暑に行くなんて言ったら渋い顔するだろうし。少なくとも俺がついてれば、保護者代わりになると思ってくれてるみたいだし」 「そこ、ごちゃごちゃ言わない。理由なんかいくらでもあるだろうがな、コンラート。従弟殿はお前と遊びに行きたかった。それだけだ」 ぴしりと言われて仰け反ったコンラートに露貴は少しだけ笑って見せた。 その顔で、彼が考えていることが手に取るようコンラートにはわかる。本当はあのときに止めるべきではなかったのかもしれない、そんなことを考えているのがわかってしまう。 「俺は、あの人の友達だよ。露貴」 いまは、少なくともいまはまだ夏樹はそう思っている。だからその信頼は決して裏切らない。まるで夏樹のような短い言葉でそれを告げれば、わずかに痛ましい目をして露貴がうなずく。顔を上げたとき、露貴はもういつもどおりの明るい顔をして見せた。 「ま、とにかくぱーっと遊びますかね」 「例えば?」 「……ぱーっとって言ってもな、コンラート。素晴らしく何もないところだぞ。だからあの別荘は合宿所に使ったりできるんだ。周りはほぼ目印のない疎らな木立。お隣さんは歩いてどれくらいかかるかなぁ。食べ物の買出しは町までおりないとないに等しい。そりゃ合宿くらいだったらいいぞ。飲み物にスナック菓子くらいでも楽しいもんだ。でもな――」 「露貴、俺も知ってるって」 「ん? そっか、手伝いにいったことあったか」 息子が何もできないぶん、夏樹の両親は家事を一通りこなせるコンラートを奇跡のように感じているらしい。コンラートを近くに置いておけばそのうち息子も料理の一つくらい覚えるだろう、とはどうにも果敢ない望みだと少なくとも露貴は思っている。 そんな思惑があったのかどうか。別荘を合宿利用する生徒たちのために先立って夏樹が掃除を申し付けられたことがあった。無論、本当に依頼されたのはコンラートだ。 「だからお前が言うぱーっと、がわからん」 「……気分の問題だ、気分の! なんにもないところなんだぞ!? なにが悲しくて若いみそらで従弟と友達と三人で、しかも男ばっかでこもらなきゃならないんだよ!」 「嫌だったら来なくていいよ。邪魔だしなー」 「とんでもない! 可愛い従弟殿が毒牙にかけられないよう見張っとかなきゃな」 言いつつ本当に止めるべきはコンラートではない、と露貴は知っている。無駄にじゃれかかる夏樹を適当なところで止めてやらねばコンラートが持たないだろう。 それがわかっているからこそ、コンラートはわざと大声を上げて露貴にじゃれかかる。思い切りよく頭をはたけば、背中をしこたまに殴られる。お互いそれが礼代わりだった。 結局、そうしてこの別荘に来ている。道中、青白い顔からいっそう血の気を失くした夏樹はおそらく貧血でも起こしていたのだろう。だがさすがに高校男子、それを認めたくはないらしい。指摘するほど配慮に欠けるものもいなかった。 暑いのなんのと露貴は文句を言い、別荘につけばついたで何もないと文句を言う。が、夏樹は聞こえてもいないよう半ば目を閉じてソファに座っていた。 「夏樹さん」 コンラートの声にすう、と目を開ければぼんやりと霞がかかったかのよう。普段の目の強さはどこにもなかった。 「あまり冷たいものでも体に障るから」 差し出されたグラスに夏樹は黙って口をつける。氷の入っていない薄茶色の飲み物は、どうやらハーブティーらしい。淹れてから一度冷やし、それを更に常温に近くなるまで戻したもの、と見当をつけて彼の目許が和む。 「手間」 小さく言えばコンラートが笑った。 「それほどでも。気に入ったなら幸いですよ」 露貴からは夏樹が夏ばてすると本格的に何も食べなくなる、と聞いていた。茶の一滴でも入れば僥倖、というものらしいから、いまこうして飲んでくれたことだけでコンラートはほっと息をつく。 「相変わらずだなぁ」 こちらは雫がつくほど冷えた同じハーブティーを飲んでいる露貴だった。 「なにが?」 「お前が」 「俺? どこが。と言うか、何が?」 首をかしげるコンラートに夏樹の唇がほころぶ。それを見て露貴も内心で小さく息をつく。 「その過保護っぷりが」 「いやいや、俺なんかまだまだ。小父様に比べれば余裕でしょう」 「あれと比べる時点で基準が間違ってる。気づけよな」 そう露貴は実の叔父を突き放して評価する。実際のところコンラートもそう思わないでもないので言葉がない。 が、夏樹の父には餌食になってもらった甲斐があるというもの。小さくその息子が笑い声を立てていた。 「お。笑った」 「笑うよ」 「そうか? うんうん、お兄さんは感激です。笑えるぐらい元気になってよかったな、夏樹」 こくり、と首をかしげて夏樹は露貴を見ていた。不思議そうな顔をしてそれからコンラートに視線を移す。 「夏樹さんは、自分が笑うのがどうしてそんなに嬉しいんだろう、露貴って彼女の一人もいないのかな、実は寂しいやつだったのかな――って言ってる」 「ちょっと待て」 「うん?」 「いまの、どこからどこまでが夏樹の言葉で、どっからがお前の独断だ」 「あなたの従兄殿はずいぶん酷いですよ。せっかく翻訳したのに」 「うん」 「そこ! 否定するところだろうが、夏樹! で、どこまでだ?」 「全部」 短く言った言葉の意味を察することができる二人でつくづくよかった。夏樹のそれは否定ではなく肯定だった。つまり、全部自分の意図通りのことをコンラートは言った、と。 「まったく、可愛くないねぇ。こんなに心配してるってのに」 「俺も、心配」 「彼女? いるいる、いますって。な、コンラート?」 「俺が知る限りじゃ先週別れたみたいだけどな」 うっと露貴が大袈裟に顔を顰めて見せれば、夏樹の口許のほころびが大きくなる。ほんのかすかな嫉妬に駆られ、コンラートはあえて笑う。が、不意打ちされた。 「カイルは」 見上げてくる目に、どうして逆らえただろう。言いたくない言葉を喉に詰まらせたコンラートに露貴が代わって答える。 「あれ、彼女って言うのか?」 「……いるんだ」 わずかな落胆に聞こえた。思わず飛び上がりそうになる体と心を必死に抑えつけてコンラートは何気なく首をかしげる。 「露貴?」 「いやさ、お前って女の子に付き合ってって言われてもたいてい断ってるだろ。どうしても断りきれないしぶとい……って言っちゃなんだけど、そういうのだけ、付き合ってやってるじゃん」 「何度断っても、どうして?の一点張りじゃ断るほうも疲れるから」 「だろ。そういうの、彼女って言うか?」 「少なくとも俺はそうは思ってないんだけどな」 「だよなぁ」 しみじみと納得する露貴だったが、夏樹は首をかしげている。思わずそちらに視線を向ければ真正面から問われた。 「どうして?」 複雑な問いだった。どうして付き合うのか、とも聞こえたし、どうして断り続けているのか、とも聞こえた。 「興味がないから、でしょうね。付き合いたい、と思うような女性がいなくって」 にっこり笑って言えば露貴の眉がぴくりと上がる。無論、夏樹は何も気づいていない。それでいい、とコンラートは胸を撫で下ろす。 「だったら、俺とは?」 心の底から同行してよかった、と露貴はありとあらゆる神々から天地に至るまですべてに感謝を捧げた。顔色を変えないコンラートに心の中で絶賛の拍手を送る。 「あなたと?」 わずかに茶化すような声音まで作って見せるとは、コンラートも芸達者になったものだと感嘆する反面、原因を作った従弟が嘆かわしくもなる。 「いや……! そうじゃなくて!」 ようやく、やっと、自分の言葉がどういう意味に聞こえるか理解した夏樹だった。当然、最初からコンラートも露貴も誤解はしていなかったのだが、夏樹は一人で慌てている。滅多に見られないその様子をしばし目で楽しみコンラートは笑って彼の背中を叩く。 「わかってますよ。自分といて楽しいか、と聞きたかったんでしょう?」 やつれてしまった夏樹の顔を覗き込み、慌てた折に血が上って少しは健康そうに見える様に目を細める。 「楽しいですよ、とても。なんだかよくわからない話をする女性といるより、ずっと楽しいです」 「それは」 「比べてごめんなさい。でも、他に比較対象がないので」 「そこは比較しないでお前といるのが一番楽しいって言うところじゃないのかなー、コンラート君?」 無意識に暴走する夏樹を止めるよりここはコンラートを茶化したほうが早い、と言う露貴の判断だった。 「念のために聞く。なぁ、露貴。男が同性の友達に言って、気色悪いと思われない社会だったかな、日本って言うのは」 「俺だったら思いっきり引く。少なくともそいつと二人きりになるのは真昼間の大通りでも断固拒むくらい引く」 「だったら気色悪いこと言わせようとするな!」 「いやぁ、お前だったら言っても似合っちゃいそうなのが怖いよな。夏樹、どうだ。言われてみたいか」 「……ちょっと、いやかも」 その一瞬のためらいはなんだ、と心の中で露貴は従弟の頭を平手で叩く。思い切りよく嫌がってくれなくてはコンラートの心を痛ませるだけだと露貴はわかっていたが、もうどうにもならない。目顔でコンラートに詫びた。 「ご安心を。私も友達に言いたいとは思わないですからね」 にっこり笑うコンラートに本当に安心したよう夏樹が笑う。これで真実、二人は友人だというのだからどうかしている、とは思っても言わない露貴だ。 よくよく理解していたが、露貴は止めたりわざと煽ったりで忙しい。正確にはコンラートを止め、夏樹の言葉を煽って自覚させる、だ。無自覚にとんでもないことを言うものだから露貴はひやひやし通しだった。 おかげで、夕食の仕度からなにから全部コンラートに任せたものの、まだ宵の口ですでにぐったりしている。もっとも、それを顔に出せないからこそよけいに疲れているのだが。 「んー。ちょっと静かな避暑地の夜ってのを楽しみたいかな。悪いけど先上がるわ」 ひらりと片手を振って二階の寝室に行ってしまう。いくら夏樹でも本格的な夏ばての身だ。今夜は早々に寝に行くだろう。 「カイル」 と思った露貴の思惑は見事に外れる。夏樹は短い言葉と視線でコンラートを庭に誘った。 宵の口とはいえ、都会のような明かりがないぶん辺りは真っ暗だった。居間からもれる明かりを頼りにゆっくりと庭に出る。 「あぁ……」 空を仰いで夏樹が息をつく。つられて見上げた空は横浜では見られない満天の星。 「綺麗ですね」 「うん」 「わざわざ、見せてくれたんでしょう?」 隣の顔を覗き込めば、目つき一つで叱れた。わかっているならば口にするな、と。ついで夏樹はにこりと笑う。だから彼もまたこの時間を楽しんでいるのがコンラートにはよくわかる。 「夏樹さん」 一言だけ断ってコンラートは彼に背を向ける。自分が彼の言葉がわかるなら、彼もまた同じはず。思ったとおりだった。 せっかくの星空に、居間の明かりが邪魔だった。黙って消しにいったコンラートを、夏樹は仄かな笑顔で迎える。露貴はすでに眠ってしまったのか、二階にも光はなかった。 明かりの消えた庭は、夜の暗さを二人に教えた。無言でいるのが恐ろしいほどになる。ただ、すぐそばに互いがいた。ふ、と夏樹が自分の体を抱く。 「どうしました?」 声を立てるのがはばかられ、小声になったコンラートを彼は笑ったようだった。声もなくそっとうつむいた気配でそれと知れる。 「別に、声。潜めなくてもいいのに」 「なんだか、もったいなくて」 「うん」 それがわかってもらえた、と夏樹の喜びが伝わってきた。満足そうにうなずく彼はいまだ自分の体を抱いていた。 「それで?」 促せば、少しだけ困ったような気配。だからコンラートは黙る。話したければ話してくれるだろうから。 が、それほど重大な決意がいるような話題でもなかったらしい。夏樹の気配が和らいで苦笑めいたものになる。 「ちょっと、寒い。冷えるんだな」 横浜の暑さに慣れた体だった。決して寒さを覚えるような気温ではないはずなのだが、彼はそう言う。夏ばてで体力が落ちているせいもあるのかもしれない。 「上着をとってきましょう」 すっと踵を返したコンラートの腕を咄嗟に夏樹は取った。お互いに驚いて、表情もよく見えない暗がりの中、笑みを交わす。 「カイル」 そのまま腕を引き、じっとコンラートを立たせたかと思うと彼は。 「――風除けになりますか?」 くつろいだ様子で夏樹はコンラートの胸に背を預ける。まるでなんの心配もいらない場所だとばかりに。 「ん。充分」 言いながら、まだ体を抱いている夏樹だった。コンラートは彼に気づかれないよう深い呼吸をする。それから夏樹の体に腕をまわした。 「この方が寒くないでしょう。嫌ですか?」 「別に。あったかい」 「それはよかった」 その言葉に夏樹が仰のく。うっかり失言でもしたか、と青くなるコンラートの顔は幸い暗さにまぎれて見えなかった。 「ずるい」 「なにがです?」 「背。伸びたのに」 まだ自分はコンラートの肩までしかないと拗ねて見せる夏樹にコンラートの頬が緩んだ。思わず漏れた小さな笑いを聞きとがめて肩先で押してくるのがまた、どうにもたまらなかった。 「これから伸びますよ」 「ずっとそう言ってる」 「だってまだ高校生じゃないですか」 くすりと笑ったコンラートの言葉の何が気にかかったのか。不意に夏樹が黙って仰のいた不自然な体勢のままコンラートを見つめた。 「夏樹さん?」 「……ずっとって、言えるくらい一緒にいるんだって、思って」 「いつになってもそう言えるような友人でありたいですね」 多少の空々しさがあったとしても、夏樹にはわからなかっただろう。いかにも嬉しそうにうなずいている。だからコンラートはそれでいい、そう思う。胸を切る痛みさえ、なければ。 「カイル。星座、わかる?」 再びゆったりと体を預けて星空に見入る夏樹を支え、コンラートもまた空を仰ぐ。 「少しだけ」 自分の腕で彼を温めながらコンラートは星空ばかりに集中していた。腕の中のことはできるだけ考えないよう。楽しげに星座を見つける彼には何も気づかれないよう。 コンラートの葛藤に気づいていたのは二階の窓から彼らを見下ろす露貴だけ。その露貴でさえ、親友の本心はわからなかったかもしれない。コンラートの本心、夏樹の本心。互いがそれと自分で気づかない本心。そんなものを他人がわかるはずもない。露貴は思わず窓辺で呟く。 「コンラートを止めるより、夏樹を教育したほうが早かったのか?」 露貴の目に二人は紛れもない恋人同士に映る。夏樹が気づいていようがいまいが、その感情がどういうものであろうが、夏樹にとっての一番、はコンラートその人。 「じゃなかったら彼女、の一言にあれだけ嫌な顔したりしないよなぁ」 ぬかったか、とばかり頭をがしがしかく露貴はまだ知らない。この二人がこの夜に見たとおりの関係になるにはまだ十余年が必要だとは。 |