昼休みを控え、秘書室は華やかにざわついている。人員にとっては幸いなことに、社にとってはおそらく不幸なことに今日は比較的暇だった。 「今日、どこ行く?」 社員食堂も人気ではあるのだが、毎日では飽きるのだろう。あちらこちらと昼食をとりに出る社員も多い。 そのざわめきが、ふと止まった。誰がどこを見たわけでもない。それなのに瞬時に全員が黙る。静かに扉が開いた。 「あ、お出かけですか?」 開いた扉は社長室のもの。当然出てきたのは社長だ。夏樹はじろりと秘書室内を見回し、なぜか小さく溜息をつく。自分が出てくる寸前までの騒がしさを感じ取ったかのようだった。 「食事」 短く言って視線を動かす。その視線に導かれるよう、外出していたカイルが戻ってきた。 「間に合いましたか」 にこりと言ったそのタイミングのよさに秘書室人員が一斉に安堵の溜息をついた。誰が見ても社長の機嫌がよろしくないことは目に見えてわかる。こんなときに頼もしいのは秘書室長を置いて他にいない。 「いま出るところだ」 「では下で待っていればよかったですね」 軽く言うカイルに、人員は心の中で揃って首を振る。この状況を打破していただくためにもどうぞ今後共にきちんと戻っていただきたい、と。 まるで社員の心の声が聞こえたかのよう、夏樹は秘書室内を見回した。その視線に射抜かれるのを恐れて一人ずつ綺麗に視線をそらしていくのをカイルは内心では面白く見ている。生真面目な顔は崩さなかったが。 「新庄」 夏樹の声に新庄が飛び上がった。カイルの補佐を務めているというのは建前で、事実上、新庄は秘書室の人員を統括している。カイルが事実上の副社長であるのと同じことだった。 違うのはカイルにその自覚があり、新庄にはない、と言う辺りだ、と夏樹はいささか嘆かわしく思ってもいる。もう少し自信を持ってもいいと思うのだが、どうにも本人がその気になってくれない。 「はい!」 まるで新入社員のように飛び上がるものだから、人員に舐められるのだ、とカイルも思ってはいるのだが、言ってやるほどお節介ではない。言えば改めるだろうが、言われてそうしたのでは新庄が成長できない。もどかしいのはカイルも同じだった。 「昼食。付きあえ」 「は、はい!」 「あぁ、そうだ。桂子さん。君も。いいですね、カイザー?」 かまわない、と言うことだろう、社長は黙っていた。実は社員にそう見えただけ、と言うことであって、夏樹は小さくうなずいている。それが見えたのがカイル一人にだけであったとしても。 「あー、ずるいですー。どうしてですかぁ」 果敢な社員の声に夏樹は一瞥をくれた。もっとも、そもそもが果敢なのだから、その程度で黙らせられるとは思っていない。視線もくれずにカイルに合図をする。 「いつも新庄と桂子さんが留守番だろう? たまには他のものがしなさい」 夏樹に代わってカイルが言えば、ばつが悪そうに人員が目をそらす。 「ご存知だったんですか?」 思わず尋ねてしまったのは新庄だ。桂子はそそくさと新庄の影に隠れるよう、それでも立ち上がって出かける気になっている。 「なぜ、知らないと思う?」 ゆっくりとした言葉で逆に社長に質問し返されてしまった新庄はあたふたと桂子を探す。自分の背中にいた。 「社長室、隣ですもんね!」 そういう問題ではない、と夏樹が心の中で罵った声は幸いカイルにだけ聞こえた。これはさっさと外出させるに限るとばかりカイルは社長のコートを手に取る。 「今日、あったかいですよ?」 「そう言えば春一番が吹いているって、言ってたよね、さっき」 「……さっき?」 桂子と新庄が言葉を交わすのに、思わず夏樹が口を挟んだ。業務中に、いつ、どうやって、天気予報を聞いたのだ、と顔に疑問が表れ、目に険しいものが浮いている。 「カイザー、昼食後の予定が立て込んでいます。出かけましょう」 さりげなく夏樹の視界を遮るよう立ったカイルの背中に向かって新庄か思わずといった体で両手をあわせた。 「……もっともだ」 言いたいことはいくらでもある。ここでは言えないので、帰ったらとことん付き合え。夏樹の短い言葉の中にそれだけの意味を聞き取り、カイルは力なく微笑んだ。 四人が出て行った後、秘書室内に爆発的な歓声が沸きあがる。本人たちもなぜ笑い出したのか、喜びの声を上げたのかわからない。ほとんど発作的な声だった。 「カイザーがいると、それだけでストレスよね」 いみじくも笑いながら言った誰かの言葉が、的を射ていたのかもしれない。 もっとも、言われた当人はたとえ耳に入ったとしても気にも留めないだろう。エレベーターを待つ間も無言で、新庄や桂子はやりきれない思いでいるのだが、カイルは気にした風もない。 「あれ、コート」 不意に新庄が言う。カイルはいまだ夏樹のコートを手に持ったままだった。よくよく見れば、自分のコートも持っているのだろう、薄手の春物コートとはいえ、男物二枚はさすがにかさばる。 「持ちましょうか?」 「いや、結構」 「一枚だけでも」 言う新庄の、下心と言ってしまっては可哀想だが、多少の心の内を感じ取らないわけがない。カイルはにっこり笑って自分のコートを渡した。 「悪いね」 内心の落胆を必死で抑えているつもりの新庄だったが、あいにくカイルにも桂子にも悟られている。気づいていないのは当事者だけだ。 「どうぞ」 エレベーターの扉が開き、本来ならば新庄か桂子がするべきことをカイルがする。扉を押さえ、夏樹を導く。ついでとばかり桂子を目顔で促す。 「すみません!」 なぜか先に飛んで入った新庄が、エレベーターの開くボタンを操作して頭をかいた。 そんな彼らをどことなく夏樹は面白そうな顔をして見ている。それとわかるのはやはり、カイル一人ではあったけれど。 と、エレベーター内で夏樹が咳をした。軽いものではあったけれど、カイルが慌てて背をさする。 「お風邪ですか。春の風邪は長引くって言いますから」 なぜとなくいたたまれなくなって桂子が虚ろに言えば、もっと虚ろに新庄がうなずく。 「いや」 咳の合間に短く言うあたり、奇妙に律儀な人だ、と桂子ははらはらするのだが、カイルはそれどころではない様子で腕の中に抱えんばかりに背を撫でている。 「大丈夫ですか。戻りましょうか」 「いいから、その手を離せ」 「ですが――」 「ここは日本だ。もう少し人目というものを考えろ」 あくまで外国人の感性で物事に対処するな、と言う夏樹の言葉。それ以外の意味は新庄にも桂子にも想像の他だった。が、カイルがわずかに耳の辺りを赤らめて手を離す様はまるで感電でもしたかのよう。 「失礼しました」 頭を下げて言うカイルに、夏樹が答える間もなく扉が開いた。なぜか妙に新庄と桂子はほっとして顔を見合わせ、ついで慌ててボタン操作をする。さすがにカイルに二度もやらせるわけには行かない。 「室長、どこに行くんですか?」 喉の辺りをさすっている社長は、本当は体調が優れないのではないだろうか。そんな思いもあらわに新庄が言えば、カイルがにやりと振り返る。 「すぐそこだよ。残念だったね」 「全然! あんまり遠くだったら、その……!」 「新庄」 「はい」 「私が体調の優れないカイザーを遠くまでお連れすると、本気で思ってるのかい?」 これをにこやかに言われたからたまらなかった。思わず足の止まった新庄は桂子に背中を叩かれて置いていかれたのを知る始末。 「ごめん!」 慌てて小走りに追いかける。一階ロビーは営業職や、逆に他社の営業などが足早に行きかっている。早めの昼食に出よう、というものもいたのだろう、カイルの姿を目にするなり慌てて隠れた。 「目立ちますねー」 社長ではなく、秘書室長の姿を見つけて隠れた彼らは、室長の背の高さからそれを知ったのだろうとばかり新庄は言う。 その言葉に曖昧にカイルはうなずき、夏樹の体調を心配していた。日本人男性としては小柄なほうではない彼も、カイルの横に並ぶと頭半分程度は小さくなる。おまけにこちらは日本人らしく、細身でもある。 それでも、とカイルは思う。普段ならば社員が社長に気づかないなどと言うことはありえない。この細い体のどこにそれほどの、とカイルが驚くくらい彼には圧力がある。辺りを払う威厳、と言うにはいささか若いものの、いずれそう言われるようになることは間違いない。その彼が社員に気づかれないとなると、本格的に風邪をひいたか。案じるカイルの耳に彼の声が聞こえた。 「――機嫌が悪いだけだ」 「カイザー?」 言いたいことはわかった。虫の居所がよくないせいで、いつもどおりの社長の顔をしていられない。だから、まるで気配まで殺すかのようなひっそりとした態度になっている。本人はそう言いたいらしい。だが。 「黄砂」 続けて短く夏樹は言った。そしてカイルはやっとほっとする。それまで気づかなかった自分の迂闊さを呪いたいほどだった。 「埃っぽいですからね」 そういうことだ、と夏樹は小さくうなずいた。外出から帰ってきたカイルのコートに、あるいはエレベーターの中に黄砂が漂っていたのだろう。単純にそれで咳が出ただけだ、と夏樹は言う。 当面これで安心したカイルではあったが、帰ったら温かいジンジャーティーでも作る決心は固い。横目で見ずともカイルの気配にそれと察した夏樹が口許だけで笑った。 「ではそういうことで」 言ったカイルの言葉の意味が、新庄と桂子にはわからない。まるで会話になっていないようで、二人の間では通じているらしい言葉。 新庄は二人の背中を追いかけつつ追いつけずにいる。距離ではなく、立場が。 「外、風強そうですねぇ」 すぐ隣に立つ友人の複雑な心のうちを知りつつも知らないふりして桂子は明るくガラスの外を指して笑った。街路樹の梢が大きく揺れている。 「あぁ、そうだね」 言いながら、カイルがなぜか一瞬足を止めた。夏樹は止まらない。そしてカイルは足を進め、いままで右側を歩いてたいたはずが、反対につく。 「室長?」 カイルの意図がわからず不思議そうな声を上げた新庄にカイルは答えない。無論、夏樹も。 答えはすぐそれと知れた。自動ドアを抜けた瞬間強く吹きつける風。細い桂子など飛ばされそうなほどだった。 が、夏樹は揺らぎもしない。桂子は驚きに目を見開く。なぜ。疑問はすぐ晴れた。左側から吹きつける風。夏樹の左には、カイル。 「ちょうどいい風除けだ」 ちらりと首だけ振り向け、夏樹は密やかに目許で笑った。 預かったカイルのコートを、新庄は皺になりそうなほど握り締めている。桂子は言うこともできず、見過ごしにもできない。わずかに背中をつついて注意を促せば、慌てて新庄が手を離す。 それでも新庄はカイルの背中を見ていた。さりげない態度。無言で夏樹をかばった仕種。そして夏樹もまた、カイルがそうするであろうことを予測していたかのように。 「無理かも――」 カイルに追いつき、追い越すなど、永遠に叶わない望みかもしれない。新庄の呟きを春一番の強い風が吹き飛ばしていく。 「なんか色々だけど、よくわかんないけど、頑張ろうよ。春だし」 励ましたい気持ちはあるのだが、下手なことを言えば傷つけかねない。おかげでそのような要領を得ない言葉になってしまったけれど、新庄には伝わったらしい。力強い笑みが返ってきた。 気持ちを新たにした二人が、上司との昼食を終えたとき、新庄はまたもがっくり沈み込むことになる。 店を出た途端に吹きつけたのは強い風。が、先ほどとは逆の北風だ。当たり前の顔をして夏樹をかばう位置に立ち、カイルはコートを着せ掛ける。それから新庄に預けたままだった自分のコートを受け取り、当然だとばかり、自分のマフラーを夏樹の首に巻いた。 「寒の戻りだね」 冷たい風の中カイルは笑う。用意のよさに呆れるべきか桂子は迷う。それとも日本人より日本人らしい言葉にか。 その日の午後。午前中の穏やかさとはうって変わって忙しくなったと言うのに、新庄は終業までまるで使い物にならなかった。 |