職場が騒がしいのは望ましいことではない。夏樹は確固たる信念を持っているのだけど、そこは大勢の人間が集まるだけあって、中々徹底されることはない。
 今日もやはり、騒がしい声が秘書室からしていた。隣接する社長室に届くほどの声をあげるなど何事か、と夏樹は心からの溜息をつきたくなってくる。
「カイル――」
 たしなめに行かせようとして、カイルが側にいないのに気づいた。
「まったく」
 言いつつ夏樹の口許には笑みが浮かんでいた。彼ほど気配を感じさせず仕事をする人間もいない。それが夏樹にとって必要だと思っているからこそ、カイルはそのような態度を取り続けている。本来的に彼は影の薄い男ではなかった。
 心の中で感謝をしつつ、社長室を出た夏樹はカイルに捧げた感謝と褒め言葉をその場で即座に撤回した。
「……なにをしているんだ」
 軽い頭痛がしそうだった。いまはまだ勤務時間中で、当然だから社員たちはデスクについているか、そうでなければ秘書室ではなく担当する幹部社員の元で仕事をしている。そのはずだ。
「あ、カイザー」
 こんな朗らかな声を、仕事中に聞くはずがない。夏樹は現実の認識を失いそうだった。
「アイスクリーム、お食べになりませんか?」
 まったく、完全に夏樹はなにを言われているのか理解できない。彼の脳裏に「いまは仕事中」そればかりが巡る。
「取引先からのお土産のようですよ、カイザー」
 少しばかり困った顔をしてカイルが寄ってきた。じろり、と睨みつけて説明させる。
「溶けてしまうので、食べてしまおうと。そういうことのようです」
「誰だ」
「某医療機器メーカーの方です」
「なんだ、その言い方は」
「詳細に説明すると、そちらに怒り矛先が向きそうなので」
 わずかに微笑んでカイルは首をかしげる。それはたまのことですから、この場は収めてください、と言っているように夏樹には見えた。
「……たまに、か?」
 小声でカイルに文句を言っても、彼はなにも見えなかったふりをする。実際、秘書室の騒ぎはたまにどころではない。
 もっともカイルとしては一時的に仕事の能率は下がるものの、息抜きは必要、と認めているからこそ部下の態度を黙認しているのだった。
「まぁ、いい」
 カイルの考えを感じ取って、夏樹はそれで諦めることにする。秘書室の社員は、最終的には夏樹も部下ではあるけれど、実質指揮をしているのは直接の上司であるカイルだ。
「お前が責任取れよ」
「わかってます」
 小声の会話は社員には聞こえなかったのだろう。言葉少ない断片的なやり取りは誰にわかるものでもない。二人だけに通じるやり方だった。
「カイザー、召し上がりませんか」
 それでも彼らは夏樹の黙認を理解したのだろう。にっこり笑って土産の箱を差し出す。
「イチゴと、バニラ。チョコレートと……あ、チョコチップもありますよ」
 箱の中には見事に大量のカップアイス。改めどこぞの社員を恨みたくなってくる。溜息をついて夏樹はバニラを一つ取り上げた。
「室長、いかがですか?」
 そちらに回った箱をカイルは片手で押しとどめる。きょとんとした社員にカイルは苦笑していた。
「私はいいよ。コーヒー飲む人は?」
「あ、私が!」
「いいよ、手は空いてる」
「じゃあ……」
 ちらりと見回せばちらほらと手が上がり、最終的に全員の手が上がった。上司自らコーヒーを淹れる会社と言うのは珍しいのではないか、と社員たちは思うのだがこの会社ではさして珍しくない。手があいている人間がやればいい、それが徹底されていた。
 そこだけは、評価に値する、と夏樹は思う。他のことも徹底してくれれば言うことはないのだが、内心で苦笑しつつ蓋を開ければアイスクリームは溶け始めていた。
「カイザー」
 差し出されたコーヒーを一口。カイルにしては熱いコーヒーだった。
「アイスにコーヒーって、幸せだよね」
「冷たいからねぇ」
 女子社員の声を聞きつつ、夏樹はそのようなものか、と思う。男子社員も苦笑いをしながらアイスクリームをすくっていた。
 手持ち無沙汰になったカイルが、そばに戻ってきて、なぜか夏樹はほっとした。つくづく自分は喧騒が好きではないのだ、と思う。カイルはだから夏樹にとって、世間との壁だった。
 すぐそこに、カイルの肩がある。社長の隣に堂々と腰を下ろすほど社員たちはいい度胸をしていない。カイルだけが、無造作にそれをした。
「カイザー」
 せっせとすくっていたアイスクリームから目をあげて新庄が声をかけてくる。なんだ、と問うこともせず夏樹は首をかしげるだけ。その程度には新庄と馴染んでいる。隣でカイルが苦笑している気配。
「アイス、お好きなんですか?」
「そう見えるか」
「見えます。……似合いますし」
 どこの世界にアイスの似合う三十男がいるのだ、とは夏樹は問わなかった。無言で自分のカップを睨みつける。
「新庄は、アイス食べてるのが似合うって言われて嬉しいほうか?」
 口を閉ざしてしまった夏樹に代わり、カイルが問えば千切れそうな勢いで新庄は首を振る。
「普通の男性諸氏はそう言われても嬉しくないと思うけどな、私は」
「でも、似合いますよ。カイザーは」
「カイザーは、ね」
 カイルまでなにを言うか、と見上げれば困り顔の彼がいる。新庄が困ろうがどうと言うことはないが、カイルを困らせるつもりはない夏樹だった。少しばかり表情を緩める。
 それを見ては、社員たちが声もなくどよめく。カイルは、気づいた。夏樹はまるで気づいていない。このあたりの疎さが可愛い、と決して口にはせずにカイルは思う。
「あなたは最低限、むさくるしくはないですから」
「問題はそこか?」
「その辺りでは?」
 はぐらかされた、そんな気がするのだけれど、なにをはぐらかされたのかが夏樹にはわからない。わずかに唇を引き結んで不満を知らせた。
「カイザーって、ほら、なんと言うか……、その。あどけないというか……、ちょっと守ってあげたくなっちゃうような――」
「新庄、職が惜しければ口をつぐんだほうが賢明だ」
「カイル、脅すな」
「あなたがやるよりはましでしょう」
 やりかねないから、ありありと彼の表情には表れていた。吹き出しのたは、誰が最初だっただろう。めげない秘書室の人員、の評判はこの辺りにあるのかもしれない。
「カイル」
 なにかすべてを諦めたくなってしまった。夏樹は肩を落としてアイスを大きくひとすくいした。そのまままだ熱いコーヒーに落とす。
「はい」
 夏樹の手から、半分ほど残ったアイスのカップを取り上げて、カイルは無造作に夏樹が使っていたスプーンで己の口に運び始めた。
「あ……室長、スプーン、新しいの持ってきましょうか?」
 恐る恐る申し出た部下にカイルはにっこりと微笑む。
「いいよ、別に必要ない」
 あっさりと言ったけれど、カイルは内心でこんなチャンスを逃すものかと力強く拳を握って歓喜に震える。
「お前なぁ……」
 カイルが夏樹の表情を読むのが得意ならば、夏樹だとて同じこと。何気ない顔をしているカイルがいまなにを考えたのか手に取るようにわかってしまった夏樹は半ば呆れて溜息をつく。もっとも、顔は笑っていたが。
「なんです?」
 気づかないふり。なにもなかったふり。どこから見ても本心からなにもわかっていない、そんな顔をしてカイルは微笑む。
「……別に」
 肩をすくめて夏樹はアイスクリームの溶け出したコーヒーを口にした。実に甘かった。顔を顰めた夏樹に気づいたのは、カイルだけ。
 勘のいい社員は、気づいた。はじめから夏樹が半分残すことを見越していたからカイルはアイスを手にしていなかったのだ、と。
 新庄は、気づいた上でカイルの手を見ていた。指の先にあるスプーンを。カイルは見られていることを充分に意識して使っている、とは気づかなかったけれど。
「カイル。お前、機嫌悪くないか?」
「そんなことはありませんよ。どちらかと言えばいいほうでは?」
 その答えは決して信用できない、と夏樹は感じる。なにがあったのか、さっぱり理解できないながら、なにかがあったことだけはわかった夏樹は、この場を退散するのが最上、とばかり席を立つ。カイルの気配だけが、満足そうに夏樹の背中を追ってきた。




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