いやに蒸し暑い晩のことだった。露貴はマンションを見上げ、不快さにもかかわらず微笑む。 「どうしてんだかなぁ」 何か、いいことがありそうな晩だった。 夏樹が退院してから後、会社は大変なことになっていたらしい。社長の従兄とは言え部外者である露貴はことの詳細を知らない。 ただ、それでもあの完璧主義者から見れば自分がいなかった間の部下の対応は腹立たしい以外の何物でもなかっだろう、とは思う。 「もうちょっと気を抜きゃいいのにな」 思わずぼやいてしまうのは従弟を案じるためでもあり、原因の一端に関わってしまったせいでもある。 元々夏樹の恋人が産業スパイに関係していたことが原因だった。誰よりも一番大事だったはずの秘書室長と仲違いしてまで側に置こうとしたその恋人を放逐したのは露貴とカイルだった。 そのことで二人は大喧嘩――と言うよりも一方的に夏樹が怒っただけだと露貴は見ているが――してカイルがドイツに帰ってしまう騒ぎになった。 「まったく」 カイルが側にいなくなった後の夏樹は傍目に見ても憔悴していた。それくらいならばあのような大喧嘩をしなければいいと思うのだが、当人たちはまた別の考えがあるのだろう。 結局、自分の気持ちの持って行きようのなかった夏樹は過労と診断されるまで働き尽くし、なにをしに行っていたものか夜の箱根で大事故を起こした。 夏樹が死にかけている、と言ってカイルをドイツから連れ戻したのは露貴だった。実際はそれほどのことではなかったのだが、そうでも言わなければあの強情者は帰ってこなかっただろう、と露貴は思っている。 「困ったもんだね」 呟いた相手はカイルかそれとも夏樹か。あるいは両方ともにだったのかもしれない。 玄関のチャイムを鳴らせばすぐさまと言っていい勢いでドアが開く。 「よう……」 言って後が続かなかった。 てっきりカイルが出てくると思い込んでいたのだ。なにせここはカイルの部屋。事実上、同居であると言うのは知っていたけれど、よもや夏樹が出迎えるとは思ってもいなかった。 「入って」 偉そうに言って客がついてくるか確かめもせず夏樹は身をひるがえした。 露貴はいい加減いい大人になってもまだ細い夏樹の背中を見つつ苦笑しては後に続いた。 「悪かったな、手が離せなくって」 キッチンから声をかけてきたのはこの部屋の本来の住人だった。 「なに、かまわんよ。従弟殿がたいそう照れておいでだったけどな」 「誰がだよ!」 言った途端に飛んできたのは罵声めいた声。 「お前以外に誰がいる」 慣れたもので露貴は飄々とそれに言葉を返した。一応は客なのだが、度々出入りしているから自分でもあまり客と言う気がしていない露貴は勝手にカウンターのスツールに腰を下ろす。 「先に」 まだ何かを作っている最中なのだろう、冷蔵庫から材料を取り出すついでにカイルが缶ビールを出してはカウンターの上に置いた。 「さんきゅ」 「俺も」 「お前は手伝えよ」 「俺が手伝う?」 あまり動かない表情でさえ、夏樹がにんまりとしているのが露貴の目映った。何かを言い返そうとする前、カイルの声が聞こえる。 「あなたはいいから。露貴と飲んでて」 「そうやって甘やかすからな……」 「そうじゃない」 「なんだよ?」 問えば一瞬の半分ほどの間、カイルの動きが止まったように露貴には見えた。 「俺の用事が増える」 フライパンを揺する動作を再開し、ぼそりと言ったカイルに向けて夏樹が鼻を鳴らした。 「あぁ、まぁ、そうだろうなぁ」 「どういう意味だよ、露貴」 「だって、お前。なんかできるのか」 「できるよ」 「なにを」 からかうよう尋ねてしまった。キッチンでカイルの背中が笑っている。いつの間にか手には缶ビールが握られているのは、勝手に飲んでいる二人に気を使わせないためだろう。 「俺だって家事くらいできる」 「へー、そうか。知らなかったなー」 「露貴!」 「なんだよ」 「あのな、俺は、カイルが甘やかすからなんにもやらないんだ。あいつがやらなきゃやるよ。一人暮らしだってできる」 「お前がそう言うときって信用できないな」 「なんだよ、それ」 「だってなぁ。普段あれほど無口なお前がそれだけ物言ったってことはなぁ。ほらな、コンラートも笑ってるぜ」 「カイル!」 「ごめん。いや、あなたができることは知ってるんだ、俺はね。でも俺がやりたいだけだから」 「そうやって」 甘やかす。その言葉を露貴は飲み込んだ。急に馬鹿らしくなった。甘やかされたいのがいて、甘やかしたいのがいる。お互いにそうなのだから甘やかされ放題なのに口を挟むだけ阿呆らしい。 「ま、いっか」 口の中で呟いた声に反応したのは夏樹だった。 「なにが」 その声にカイルが振り向く。偶然だったのかもしれない。手には湯気を立てる皿を持っていた。 「お前らがうまく行ってほっとしてるからな」 実に見物だった。その言葉が耳に届くなり表情の薄い夏樹の顔が一気に紅潮したのだ。カウンターの上にはビールが小さな海を作っている。動揺のあまり取り落としたらしい。 「露貴……なんで、露貴!」 なにを言っているかさっぱりわからない夏樹の手をカイルはにこやかに拭き、黙ってカウンターの上を片付けては料理を置いた。 「さ、お待たせ。熱いうちに食べようよ」 「カイル! 露貴が、露貴に、露貴――」 「はいはい。とりあえず食べてからね」 「お前、言ったのかよ!」 「言ってない、言ってない。そんな暇なかったでしょうに」 軽く言っていなすカイルの言葉をあからさまに信じていない、そんな目をして夏樹が睨んだ。 不機嫌ながらも夏樹はしっかりと料理を食べつくした。それを言うならばカイルも露貴も盛大に食べて飲んでいる。 「それで」 カウンターの上が片付いて、簡単なつまみ物が乗るだけになったころ夏樹が口を開く。 もういいから、と露貴が言うのを聞かずカイルが後から作ったものだった。手際よくてしかも腹立たしいくらいに旨い。 「だから、俺は露貴に言っていないよ」 「だったら」 「知ってたから」 口を出したのは露貴だった。それをカイルがじろりと睨む。 「なんでだよ」 ビールに飽きたのかいつの間にか夏樹はワインを飲んでいた。その視線に気づいたのかカイルが目敏くグラスを持ってきては露貴に注ぐ。 「なんでって言われてもなぁ」 「露貴」 「だってなぁ。俺はお前の従兄でコンラートの親友だぞ」 「露貴。言ってて恥ずかしくないか、それ」 止めようとでも言うのだろうか、カイルが苦々しげに言った。けれど本当は機嫌がいいのを長い付き合いの露貴は見抜いている。 「全然」 だから相手になどするものか。カイルが上機嫌な以上に、露貴だって機嫌がいい。 「露貴」 自分で自分のグラスにワインを注いで、夏樹は視線をカウンターの上に据える。 「いつから知ってたの」 「なにを」 「だから……」 「お前らのこと?」 「そう」 あんまりにも照れているのが可愛くなってしまう。露貴はずっとこの不器用な従弟が可愛くて仕方なかった。幸せになってほしい、と願ってもいた。若干、世間の常識から外れたあたりで幸福になってしまったようだけれど、水野の家系はその手の幸福を追求してしまった人間が多いせいで誰一人として気にも留めていないのだから露貴辺りが口を出すことでもなかった。ただ嬉しい、それだけ。 「露貴」 再度促されてぼんやりと二人を眺めていたのに気づき露貴は苦笑する。 「ずっと、知ってたさ」 「ずっと? なにを」 「コンラートがお前を好きだったってな」 「露貴、もうやめてくれよ」 「やめないもーん」 笑い声がいささか大きい。酔っているのかもしれない。グラス片手に笑う露貴にカイルは困ったよう笑い、それから夏樹へと微笑を向ける。 「俺はな、夏樹。こいつがお前を好きになった最初っから知ってるの」 「よせって」 「やめないって。だから、今回の騒動もほとんど知ってるの。わかった?」 「わかりたくなかった。なんで?」 最後の問いはカイルに向けて。気づかなかったふりをしてカイルはそっぽを向いた。 「こいつがお前に惚れたとき、俺ら寮で同室だったからな」 露貴に言われてようやく夏樹も思い出す。そういえばカイルは寮生だったのだ。留学してきていたのだから当然と言えば当然。 「そんなころから……」 「なにお前、知らなかったの?」 「時間的に把握してはいたけど、実感としてはわかってなかった」 「なるほどね」 言って露貴はカイルに同情的な視線を向けた。カイルはかすかに笑って肩をすくめただけ。 「ホントはな、ちょっと後悔してる」 「露貴?」 ふっと沈んだ声にカイルは彼を覗き込む。少しばかり苦笑して露貴は手を振った。 「お前にさ、あのころ夏樹に手を出してくれるなって頼んだのがよかったのかどうか、さ」 「そんなこと頼んだのかよ」 機嫌の下降線は降下の一途をたどっていた。なだめるようカイルが夏樹の手に触れているのが露貴の視界の端に映った。 「お前にために良かれと思ったんだけどな。でもなぁ、お前ら見てると止めるんじゃなかったと……」 「そんなことないさ」 「コンラート?」 「時間かけたのは正解だった。たぶんな」 互いにそれから数度、いい悪いを繰り返している。そんな二人を夏樹は黙って酒を飲みつつ眺めていた。ほんの少し同級の親友と言うものが羨ましくて。 「そう言うけどな、コンラート。おい、夏樹。お前こいつのことずっと好きだったんじゃないのかよ。一番だったもんな、コンラートがお前の」 まだ言い合っている二人に夏樹は密やかに微笑うだけ。 「さてね」 はぐらかすように答えれば露貴が呆れたよう肩を落とした。 「同情したくなってきた」 あてつけがましい目でカイルを見ている露貴だったけれど、夏樹はしっかり目の端でカイルを捉えている。 幸福そうに笑っていた。仲のいい従兄よりずっと通じる夏樹の言葉ならざる言葉。誰より敏感に聞き取ってくれる声。だから口になどしなくとも、カイルには通じたはず。たぶんずっと好きだった、こうやって気持ちを確かめるためだけに時間が必要だった、と。 「まったく困った従弟殿だよ。こんなのだけどよろしくな」 「言われるまでもないさ」 実のところ、それだけを言いにきたようなものだった。カイルから夕食を一緒にどうかと誘われたとき、すべてを察して露貴は来た。だからこそ出てくる言葉だと、カイルもわかるだろう。 まだ飲んで行け、いっそ泊まって行けと誘われるのを振り切って露貴は外に出た。昼間よりだいぶ涼しくなった気がする。 不意に露貴は振り返る。夜の闇の中、二人が暮す部屋はどのあたりだろうか。見えるとも思っていない。それでよかった。 「良かったな、コンラート」 思わずもれ出た呟き。祝福。 長い間決して夏樹に悟らせずに耐えてくれた。つらかっただろうと思う。それでもじっと夏樹の心が大人になるのを待っていてくれた得難い男。その男の友であることが誇らしい。 露貴は口許を緩めて微笑を浮かべる。できることならばこのままずっと。今度は夏樹がカイルを幸福にして欲しいと心から願う。 マンションを振り仰いだ髪が夜風になぶられ、露貴はわずらわしげに髪を押さえた。 「ちぇ。彼女でも作るかな」 大事な人間が二人。やっとのことで幸福を掴んだ。これでようやく安心して自分のことを考えられる。そう思った自分があまりにも保護者じみて露貴はひとり笑った。 |