室長が出張中、秘書室の人員はなるべく社長に近づかないよう努力する。社長の不機嫌はいつものことではあったが、室長が不在であれば倍増する、と知っているせいだ。 それを理解しつつ夏樹は「ならばなぜ仕事をしない」と言いたい気持ちを何度となく飲み込んでいる。それもまた毎度のことだった。 決して社員が仕事をしないわけではない。単に夏樹が要求するレベルに達していないだけだ。それはどう考えても無茶な要求なのだが室長と言う実例があるだけに夏樹としてはもう少し努力をして欲しいと願うのみ。 「もっとも、あいつほどの人間がごろごろいるはずもなし、と」 いつもより広く思える社長室で一人ごち、時計を見やる。今日はいったい何度そうやって時計を見ただろう。 「失礼します」 具合の悪いことに新庄だった。時間を確認するところを見られたに違いない。 「室長、まだですかね」 案の定だった。溜息をつきたくなる気持ちを抑え、夏樹は新庄へと視線を移す。 「なんだ?」 いずれにせよ、カイルがいれば自分のところに持ってくることはない仕事に違いない。有能すぎる部下がいるとこういうときに困る、と内心で苦く笑う。 「承認をいただく前にもう一度目を通していただきたくて」 差し出された書類はやはりと言おうか、普段ならばカイルが確認する程度のものだった。ざっと目を通し気になる箇所に線を引いていく。 「承認以前の問題だな」 突き返せば、新庄は自分が悪いわけでもないはずなのに眉を下げて情けない顔をした。 「担当に戻します」 「そうしてくれ。できれば――いや、なんでもない」 「室長がいてくれればこんなことにならないんですけどねぇ」 「むしろ、カイルにどれだけ普段こんなものがまわってるのかを考えると頭痛がする」 「あ、はい。確かに」 うっとばかりに仰け反り新庄は虚ろに笑った。自分が怒られたような気がしたのだろう。それほど鋭く言ったつもりはないのだが、どうにも虫の居所が悪くてかなわない。 「失礼します。コーヒーを淹れたんです。いかがですか」 なんのかんのと言いつつ、秘書室の人員は意外と社長室に気軽に入ってくる。夏樹もそれを止めはしない。 だがカイルがいないときにこういうことができるのは、桂子くらいのものだった。どうやら好きでしているわけではなく、菅野桂子は割を食う性格なだけらしい。 「あぁ、もらおう」 「あ、桂子さん。俺も」 「そう思って持ってきましたよ」 にっこり笑ってコーヒーカップを差し出した。いい香りがする。本当に淹れたてらしい。普段はカイルが社長室に付属する小さなキッチンで淹れるコーヒーばかりを口にしている夏樹も納得するいい香りだ。ふ、と首をかしげる。 「ずいぶんいい豆使ってるな?」 その程度のことで文句を言うつもりはないが、秘書室だけがいい豆を使ったコーヒーを飲んでいるなど知られれば士気に関わる。ついでに言えば経費も気になる。 「いえいえ、買ったんじゃないんです。この前ディスペンサーのリース会社がおまけにくれたんですよ」 この会社にいわゆるお茶汲み係というものはいない。コーヒーが飲みたければ部署備え付けのディスペンサーで勝手に淹れて飲むのが普通だ。 ただし秘書室だけは来客に対応するため、コーヒー豆を購入している。どうやらそのときにサービスで提供されたものらしい。 「旨いな」 「あ。ほんとだ。すごく旨いよ、これ」 「だったら買えませんよね」 「え? 桂子さん、どういうこと?」 「だってカイザーがおいしいって仰るんですよ? この豆、どれだけすると思ってるんですか」 「俺はそこまで贅沢しているつもりはないが」 「気のせいです。室長が実費で買ってる豆、一度見ちゃいましたけど背筋が寒くなりましたから」 そう言ってちらりと桂子は付属のキッチンを見やる。まるで気づかなかった夏樹はといえば苦笑するしかない。 いつもながらに甘やかすな、と内心でここにはいないカイルを思う。不在が際立って、思わず漏れそうになった溜息を飲み込んだ。 「今日はずいぶん可愛いですね」 ここで寛いでいくつもりらしい桂子は、飲んでいたコーヒーを危うく吹き出すところだった。おずおずと新庄を見やる。 「新庄さん?」 訝しげな声に我に返った新庄があわてて顔の前で手を振った。片手に持ったコーヒーが零れそうで、つい桂子はその手を押さえてしまう。 「危ないですから!」 「あ。ごめん。いや、そうじゃなくて! 俺は別に社長が可愛いとか、そんなこと言ったんじゃなくて!」 「新庄さん。言えば言うだけしどろもどろですから」 「頼むから追い詰めないで!」 悲鳴じみた声が社長室からも漏れ出たのだろう。秘書室との境のドアにはまったガラス越しにあちらの人員が一瞬ざわめき「なんだ新庄さんか」とでも言いたげな顔をして仕事に戻った。 「それで、新庄?」 仲のいい社員同士の心温まる光景を見ていてもいいのだが、放っておくとどこまで行くのか想像ができない。 「いや、その! そのピン、可愛いなって思ったんです。それだけです!」 「あ、ほんとですね。今日は珍しいラペルピンなさってるんですね」 「ラペルピン?」 それはなんだ、と言いたげな顔をする新庄に桂子はスーツの襟に飾るピンをそう言うのだ、と説明している。 確かに今日のラペルピンは可愛らしかった。そもそもラペルピンをつけていること自体が珍しいのだが、つけているときにもこれほど可愛い造形のものは見たことがない。 色とりどりの宝石でかたどられたボールに子猫がじゃれ付いていた。無邪気に遊ぶ猫が愛らしい。むしろ女性用のブローチ、と言っても通用するほどだろう。 「あぁ、これか」 室長不在中に、二人は珍しいものを見た。少しばかり視線を下げてうつむき微笑む社長、と言うものを。 その微笑が何を意味しているのかわからないまま、けれど新庄はそこになぜか室長の影を見た。知らず怯んで視線をそらした先に桂子がいた。 「社長もそういうもの、お買いになるんですね。ちょっと意外です」 「そうか?」 「装身具を買う社長、というものが想像できないだけなんですけど」 にっこりと笑って言う桂子に夏樹は複雑そうな表情を見せた。それでぴんとくる。 「もしかして、室長ですか?」 「……たいていは」 「そうじゃないかと思ってました」 何事もなかったかのよう言ってのけた桂子の隣で新庄は意気消沈としている。なんとも微妙な問題を抱えているらしい友人が立ち直る時間稼ぎに、と桂子は必死になって話題を探す。が、ちらりと脳裏によぎったのは常に裏目に出続けている、と言うこと。だが放っておくこともできなかった。 「じゃあ、社長のアクセサリーって室長の好みなんですか?」 言ってから、完全に間違った質問だったと気づく。どう好意的に考えても完全な裏目だ。 「さぁ。どうだろうな。本人は俺に似合いそうなものを選んでいる、と言っているが」 わざとやっているのではないだろうか、と思うくらい新庄を叩きのめす夏樹の答えだが、まったく自然体で返答しているらしい。 「室長、いい趣味してますよねー。でも、それにしても今日のラペルピンは意外です」 「まぁ……これはな」 どことなく苦笑した気配。何か遠くを懐かしむような表情に、思わず新庄は夏樹を凝視する。 「それじゃ……」 不意にノックの音。入室の許可も待たずに入ってくるのは一人だけ。 「ただいま戻りました。――カイザー?」 ぎょっとして目をみはる夏樹など会社で見られるものではない。カイルはその珍しい機会に出会ってしまって苦笑する。 「私が不在の間に何を企んでらしたんですか?」 「どうして俺が何かを企む必要がある」 「悪戯を見つかったみたいな顔をしてらしたので、何をして――」 不意にカイルが黙った。片手で顔を覆い、次いで天井を仰いで長い溜息をつく。そんな室長を新庄と桂子は不思議そうに見ていた。 「あ。おかえりなさい、室長。……どうなさったんですか?」 一応は上司を気遣う言葉に聞こえなくはないが、新庄は違うことを考えている。それがありありとわかってカイルはどうしたものかと夏樹を窺った。 「おつかれさん」 だが夏樹はといえば非情にも慰労の言葉を短く述べただけ。カイルは思い返す。そういえばこの出張にいい顔をしていなかった、と。 「カイル?」 「……いえ、何でもありません」 「そうか? 懐かしいものを見て驚いた、そんな顔してるが」 「実際そうでしょう! まさかまだ持っておいでだとは思ってもみませんでしたよ」 「処分する、と考えているほうがどうかしている。お前にもらったこれを?」 にっこり笑って夏樹が言えばなぜか新庄が呻く。桂子は事態を打破しようと口を開きかけ、何か言えば事態を壊滅させかねないと口をつぐんだ。 「室長、なんですか?」 けれど口を開いたのは新庄。先ほどから装身具の類はカイルが用意していると言っていたにもかかわらず、絞り出すような声だった。 「昔な。諸事情あってもらった」 そこで桂子は気づいた。二人が紅葉坂学園の先輩後輩に当たることを。そしてその学校の不埒な伝統も。さすがにこれは知っていても喋らないほうが賢明だと気づく。 そして同時に桂子は改めてラペルピンの模様に気づいた。模様、と言うよりは宝石の配置に。 「社長、それって――」 リガード様式なんですか、そう尋ねかけた桂子に向かい、夏樹は視線だけで笑い口止めをした。無論、他意はない。子供のころ贈られた忠誠の誓いが照れくさいのだ、と。ただそれだけ。 無言のうちに納得したらしい桂子がかすかにうなずくのに新庄は気づかない。 「帰社早々面倒を起こさないでいただきたいものですね」 それですむのか、とよけいな心配をしてしまったカイルは内心で自分を笑いつついつもどおりの表情を作って見せる。 「なんのことだ?」 スーツの襟を直すふりをして、夏樹はラペルピンにわずかに触れ、カイルにかすかな笑みを向けた。 圧倒的だった不機嫌が跡形もなくなっているのに気づいたのは、不幸にも新庄だった。 |