できるだけ身内で済ませたい。これが卑怯ではあってもカイルの方針だった。 「これで見てるから」 そう言ってカイルは小型のノートパソコンを示す。 「IPが違うだろ? アクセスできるのかよ」 「反則だけどな、しょうがない。岩田の許可は取った。無線LANでつないでる」 そのノートからメインマシンを介してアクセスする。カイルは言う。 「そうすればカイザーにリアルタイムで現物を見てもらえる」 「……それくらいしなきゃあのバカ納得しないわな」 「そうは思わないけどね」 まだ若干時間が早い所為か、解析画面は変化を見せない。二人の手の中には酒の代わりに烏龍茶のグラスがあった。 「バカだよ、あのバカは」 カイルが反論しようとする口を封じておいて露貴は続ける。 「じゃなかったら気づいてるはずだ。気づかなくっても俺やお前の言うことに少なくとも耳を傾ける」 そうだったろう、前は。そんな風に言いたいように見える。 「まぁ……」 カイルも言葉を濁さざるを得なかった。なにもいきなりこんな強硬手段に出たわけではないのだ。それとなく夏樹には何度か伝えてある。なのに一向に改善されなかった。 「失いたくない……のかな」 「だからバカだって言ってんだ」 「でも、それだけ……好きなんだよ、あの人の、こと」 言いたくない言葉に口調は途切れ途切れになって。それが自覚できるから余計、気分が悪い。 「だったら会社もなにも全部放り出していけばいい。絶対あの野郎は夏樹について行ったりしない」 きつく、唇を噛む。聡明で頭の切れる従弟がそんな風になってしまった、その様を見るのがどんなに露貴は辛いのか。 少し、カイルはわかる気がする。その時、解析が動いた。 「入った……っ」 「行くか」 「まだ、もう少し……すぐに帰って来れなくなるまで」 二人しかいない書斎の空気が突然騒ぎ始めた。まるでもっと大勢が乱入してきたように。じりじりと五分が過ぎていく。 「まだか」 「まだ」 問う声も答える声も短い。さらに五分が過ぎる。 「……行こう」 その瞬間、カイルは背中に鳥肌が立つのを感じた。そっと階段を下りていく。ノートの調子は順調だった。 順調、その事になにか哀しい違和感を覚え、けれどここまで来たからにはもう後戻りはできない。いや、してはいけない。 部屋の前まできた時露貴がなにか言いかけ、が、口をつぐむ。 視線を合わせて、一度大きく息を吸う。奇しくも同じタイミングでした事に苦笑がもれ、それで妙に落ち着いた。 開けるぞ、目顔で露貴がそう言った。 「……っ」 ドアの向こう、闖入者に真琴が声にならない悲鳴を上げた。 「あ、あ…っ」 「言い訳はいらない」 こんなに冷たい露貴の声を聞くのは初めてだな、そんな場違いな事をカイルは考えている。 「今もモニタしてる。なんなら見るかね」 冷笑。カイルは後でそっと目を閉じ。気づいた。カイルを矢表に立たせないよう、露貴はわざとそうしている。その事に。 身内の出来事として済ませたいと言ったカイルの願いに露貴は応えた。だから夏樹の従兄として前面に立つ。胸が痛くなるような感謝に目を開けば露貴の肩が揺れていた。 「ひっ」 モニタの前から立ち上がりかけ真琴は転ぶ。腰が抜けたそのざまはなによりも情けなく見える。 「出て行け」 言いながら真琴の腕をとり、露貴は強引に立たせ手を離す。手を離したとたん彼の体はへなへなと崩れ落ちた。 「今すぐ出て行け。二度と夏樹の前に姿をあらわすな。無論……しゃべるな」 ここでのこともなにもかも。そうすれば何も見なかったことにしてやる、と露貴はそう言ったのだった。 ここまでカイルが決めていたわけではない。むしろ、現場を押さえてから夏樹に起きてもらってそこで決めるはずだった。 けれど。露貴は自分でそう決めた。カイルにも夏樹にも傷を残さないように、と。 「わ、わ……っ」 わかった、と言いたいのかもしれない。真琴は喘ぎながら這いずってドアに向かっていく。 ドアが開く。 「え……」 驚きの声を上げたのはみっつ。カイルと露貴と真琴と。ドアの向こうに。 夏樹が立っていた。 「勝手をしてくれる」 先ほどの露貴の冷笑が子供の微笑いに思えるほど、冷たい笑い。間違いなく三人ともに寒気が走っていた。 「俺が気づかないとでも思っていたなら……随分見くびられたものだな」 完全に腰の抜けてしまった真琴に夏樹が笑いかける。ぞっとするほど冷たく。ここから無事に帰れたならば二度とこの男とは会いたくない、そう思わせる、笑い。 「夏樹……薬、飲まされてたんじゃ」 引きつった露貴の声。 「薬? 効かなくってね」 声に。すっとカイルが青ざめる。ようやく、ようやく気づく。 夏樹は眠れない。カイルの側でなければ眠れない。たぶん今もなお。 「ようやく気づいたか。遅い」 夏樹の声は一層冷たさを増していた。 「さすがにずっと睡眠薬飲んでると効き目も薄い」 「じゃあ……」 「そいつがなにやってるか知ってたし、お前やカイルの忠告の意味もわかってた」 「じゃ、なんで」 「この手でどうしてくれようか、考えてたのさ」 部屋の気温がまた、下がる。冷ややかな笑いを口元に貼り付けた夏樹。立ち尽くすだけの二人。半ば気を失いかけている、真琴。夏樹以外の誰もが寒気を感じていた。 「なぁ露貴」 「……なんだ」 「そいつ、どこか連れてってくれないか」 「あん?」 「居場所を知ってると手を汚しそうでね」 そう、とんでもない事をさらりと言い、二人ともそれをすっと受け入れてしまった。 やりかねない。本気でそう思ったのだ。 「コンラート……」 露貴が何かを言いかけるその言葉を遮った声。 「どうして俺を信じなかった」 夏樹が言葉をかぶせる。 「夏樹、無茶な事……」 「なにが無茶なんだ。どこが無理なんだ」 「だけど……」 「カイルに話してる。露貴は頼んだ事やってくれ」 取りつく島もなく露貴から視線をはずした夏樹はじっとカイルを見る。 いや、睨む。蒼く揺らめく、その目に。射竦められカイルは動けない。まるで殺されたように。 夏樹の後でドアが閉まった。諦めた露貴がまだへたり込んだままの真琴をひきずって外に出て行った。 「どうしてだ」 再び問い。カイルは答えない。いや、答えられない。 そもそもなぜ自分がこんなに夏樹に隠して事を進めたのか自分でもわからなくなっていた。 「どうしてだ」 みたび、問い。どうしてあんな迂遠な方法でなく率直に言わなかったのだろうか。ちらり、思う。すぐに、それは無理だった、思い直す。 「わかりません」 答えた声は自分が思っていたよりずっと、ずっと冷静だった。 「わからない?」 「はい」 「信じられなくなった、それだろだろ。違うのか」 カイルは答えない。やはり、答えられない。 「答えないなら肯定だと思うことにする」 「違います。信じて……」 「じゃあなんでこそこそやったんだよっ!」 初めての、怒号。部屋中に電気が走った。カイルはまっすぐ夏樹を見ていた。 「俺を信じてたなら隠さないではっきり言えばいい。信じられなかったなら見捨てればいい。お前のやったことが理解できない」 「信じられるほど、楽観していませんでした」 嘘みたいだった。カイルは微笑いながら、言っていた。 「見捨てられるほど、絶望してはいませんでした」 深く息を吸い上を向く。この部屋に入って初めて息をした、カイルはそんな気がしている。緊張が溶け、別の緊張に変わる。 「信じられないなら……少しでも信じられないなら」 少し、ためらったのかもしれない。 「でていけ」 夏樹は言葉を切ってじっとカイルを見た。 「おっしゃると、思っていましたよ……」 耳鳴りがしている。自分の声も遠くで鳴っている。 「どう言う事だ」 「すれ違い、だったのかもしれません」 溜息をつきながら首を振る。耳鳴りは消えない。 「私はあなたに隠れてことを進めた。あなたは私に話してくれなかった、そういうことです」 こんな事、なかったでしょう、と笑って見せた口元が自分でわかるほどゆがんでいる。 今度は夏樹が黙る番だった。 「……ドイツに帰ります」 え、と。一瞬夏樹の唇が動いた。声にはならず唇だけが、動いた。 「今回の事で私はあなたの信頼まで失ってしまった。もう、側にいる事は、できません」 返答しない夏樹にカイルはじっと目を向ける。それから一度ゆっくり呼吸をして言葉を続けた。 「でていけ、と言うのはそう意味でもあったのでしょう?」 肯いて欲しくはなかったのに。夏樹は冷たい目のまま肯いた。 「……もう飛行機、とってあるんです」 指先から力が抜けていく。それなのにノートを持っていられるのが不思議だった。 「手回しのいいこった」 口元をゆがめるのも夏樹の番。 「辞表……階段においておきます。気の向かれた時に、取ってください」 ゆっくりときびすを返す。それだけを言って。 「おい」 「はい?」 「本気か」 「冗談で言って引き止めてもらおうと思うほど、姑息じゃありません」 言葉の強さと裏腹にカイルはなぜか柔らかい笑みを浮かべている。それが自分でもよくわからなかった。哀しすぎるのかもしれない。 「いつから愛していたのか、前にそう訊きましたね」 夏樹が肯く。 「……十五年前から、ですよ」 「どうして急に」 「前に言ったでしょう? いつか言いますよって」 あの日のことが脳裏に浮かんでは消えていく。あれもひとつの幸福の形ではあった。今はもう。 「もうお会いする事も、ないでしょうから」 「そうだな」 その言葉が何度も何度もカイルの耳に響く。冷たい顔の下で。夏樹はこれまでにないほど怒っている。 たぶん夏樹が感じている以上に夏樹は怒っている。哀しい事にカイルにはそれが、わかっている。 それはパニックかもしれない。愛するものに裏切られた事。カイルが自分を信じなかった事。 それらから湧き出てくる、パニックかもしれない。けれど。カイルには夏樹が自分を許すとは思えない。混乱が収まったとしても。 「でていけ。もう……聞きたくない」 言って夏樹自身がきびすを返した。カイルの目から、いや自身の怒りから目をそらすように。なぜかその姿が逃げるように、見えた。 「おやすみなさい……カイザー」 もう見えない愛しい人の後ろ姿に声をかけ。こんな時にそんな言葉が出るなんて。 哀しいよりも不思議だった。 カイルはそうして日本を発った。 |